幻想と日常 ~La Fantazio kaj la Kvotidiano
2020-12-13T03:38:32+09:00
fibich
詩と写真の日記
Excite Blog
その後の日記 (10)
http://sonneteer.exblog.jp/240743537/
2020-12-13T03:10:49+09:00
2020-12-13T03:38:32+09:00
2020-12-13T03:34:01+09:00
fibich
日常の話
病状は悪くはならなくても良くもなってはいない。そうしている間にも腰の痛みは容赦なく、外に出て歩くどころか家の中でも動きが制約されてしまうほどに痛みが激しくなっている。立つ、歩くでさえもつらい時もある。腕を前に出すこともできず、手を洗うこともできない。もちろん食事したあとの食器も洗えない。
痛みの激しいときは横になっていても疼痛がする。入院していたとき、手術前がまさにそうだった。まああの時はもっと痛かったし、寝返りもできなかったから今とは比にならないが。
先週の通院であまりにも痛みがひどくなる一方だったのでブロック注射を打ってもらったのだが、それすらもあまり効果がなかった。この様子を見て主治医は決意したのか、来月再入院、再手術をすると言い出した。
このような事だけは何がなんでも避けたかった。その一心で日常の動きにも気を遣い、和式生活を改め、椅子やベッドまで買ったというのに。全ては無駄な結果に終わってしまった。思考も停止し、何も考えられなくなった。これまでの努力は全て徒労に終わった。
思えば入院前から全てが悪い方悪い方へとしか動いていない。こうなれば良いのにと考える事はどれ一つそうにはならない。
入院は前回ほどに長期にはならないと思うが、これで恐らく春以降も闘病が続くのだろう。あまりに気落ちしてこの日記ももう書くのをやめようと思っている■
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その後の日記 (9)
http://sonneteer.exblog.jp/240712158/
2020-11-29T18:16:11+09:00
2020-11-29T18:31:39+09:00
2020-11-29T18:31:39+09:00
fibich
日常の話
おそらくこの状態が最終形態と思われる
いつかは腰椎も固定し、普段通りに動ける時が来たなら最初に買ったマットレスでまた寝たいものである。置き場所がないので部屋の中で立てかけてあるのだが場所を取ってしょうがない。今後何かが変わるとすれば枕だろうが、急は要さないのでいつになるかはわからない。
あとは痛みの引くのを待つしかないのだが、今のところは日に日に痛みは酷くなっている一方だ。非常に辛い毎日を送っている。これさえ少しは楽になり、少なくとも退院した頃くらいにまでなってくれればいいのになと思うばかり。安静にしてその時を待つしかないだろう◼️
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その後の日記(8)
http://sonneteer.exblog.jp/240706100/
2020-11-25T21:12:59+09:00
2020-11-25T21:54:10+09:00
2020-11-25T21:53:25+09:00
fibich
日常の話
本当は二人で来るところ一人で来て、しかも四種類のマットレスを4階まで運んできてもらってとてもありがたい。持ってきたのはスプリングマットレスが二種類、スプリングレスのかなり固いマットレス(これが病院では使われているらしい)とリクライニングマットレス。
最初はリクライニングマットレスから試してみたがやや身体が沈むのと、入院中もリクライニングの機能はほとんど使わなかったので見送り。次にスプリングレスのマットレス。こちらは沈み込みもなくかなり固い。次にスプリングマットレスの固い方を試してみた。もう一つの柔らかい方は試すことなく却下。二つのマットレスをそれぞれ寝て試してみてから決めることにした。
前回も書いたが、最初にニトリで買った普通のマットレスが思いのほか沈む。腰を痛めてなければかなり理想の寝心地なのだろうがあまり身体が沈むと腰には悪影響を及ぼすし、硬質コルセットをつけたままだと沈んで寝返りが打ちにくくなり、腰を痛めてしまう。実際ベッドがやってきてからまだ数日しか経っていないのにもかかわらず腰痛は更に激しくなっていた。確実に腰をいためていることがわかる。さらに今朝は寝ちがえたようで首も回らなくなってしまった。マットレス選びはそれだけ重要と言うことでもある。
こうしてマットレスを二つ置いたあと、介助用の手すりも設置してもらった。
こうして思うのは突然身体か動かなくなった時にどうしたらよいのか、病院では何も教えてはくれずに退院させられる。
まずは役所に相談して介助の相談なり介護保険が適用になる用品について、とにかく困っていることを相談してする事だ。状況や問題によって適切なアドバイスが仰げるし、希望をすれば理学療法士が出張で来てくれる。理学療法士は生活環境を見れば適切なアドバイスをくれる。また介助用品は思いのほかレンタルが可能なのでそのあたりも相談してみるとよいだろう。介護保険が適応すればレンタル代も二割負担くらいにまでなる。
もう一つは障害者年金などの申請だが、こちらは本当に障害者として認定されるか、現状が一年半以上続いていないと申請はできない。しかし該当する物があるのであればこちらもまずは役所に相談してみるとよいだろう。
もう一度書くが、こういった制度やサービスは思いのほか充実しているにもかかわらずその存在を知っている人は少ないのではないかと思う。人によっては一生縁のない事でもある。
なので詳しい知識はなくても構わない、いざという時になったら「まずは役所に相談」というキーワードだけでも知っておいてもらいたい。自治体によって名称も変わるかも知れないがたいていは高齢者支援または障害者支援の課があるのでそこで相談をすればきっと次の取っかかりには導いてもらえるはずだ。何を相談していいのかもわからないときは日常生活上で不自由を強いられて何に困っているのかを訴えるだけでも救いの道を示してもらえると思う。
話は再びベッドに戻すが、マットレスの問題もこれで近いうちに解決する。次は今の状態になったら途端に重く感じられるようになった掛け布団をどうにかしないとならない。今の自分にはあまり想像などできないとは思うが布団を二重にしてかけることもできないのた■
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その後の日記 (7)
http://sonneteer.exblog.jp/240705079/
2020-11-25T09:25:00+09:00
2020-11-25T09:27:44+09:00
2020-11-25T09:27:44+09:00
fibich
日常の話
日記には書いていなかったが退院して一ヶ月。状況は日に日に悪化するばかりだ。少なくとも日常生活では歩けなくなり、起きていると腰に負担がかかり、それが激痛となって返ってくる。以前は外出して歩くこともできたが、今では外に出るのでさえ困難になってしまった。
前回の日記でベッドがやって来たと書いたが、マットレスが予想以上に沈み込み、これが負担になってしまう結果に。ここまで何もかもが揃いも揃ってうまくはいかないと本当に厭になってくる。今回せっかく理学療法士が来てくれたのでこの事も相談をしたが、一時的にマットレスを病院ベッド用のものにするか、介護マットレスというものもあるのでそれをベッドに載せ換えるという提案を受けた。介護マットレスというのはマットレスそのものにリクライニングの機能が備わったものらしい。
本当ならばベッドだってあまり好きじゃない。これまで和式の生活が好きでベッドで生活することが殆どなかったからだ。日本人なんだから畳に蒲団の生活を続けたかった。それが身体に障るから泣く泣く諦めてベッドを買って、それさえも体に尚障るとなったらどうしたらいいのだろう。
理学療法士が言うには僕のようなケースの人は最低でも半年は我慢が必要だとの事だが、そんなに安静にしていたら仕事にも戻れない。お先は真っ暗である。
その上時折やって来る激痛がとにかく辛い。こんな痛みから解放されると信じて入院をして手術も受けたというのに、結局その痛みからは逃げられずますます激しくなっていく。本当にこの痛みから解放されたいと心の底から願うばかり。でもうそろそろ疲れてきた。こんな日記も書くだけ虚しいと思っている。
これからますます動けなくなり、寝たきりで痛みに耐える生活が目に見えている■
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その後の日記 (6)
http://sonneteer.exblog.jp/240701430/
2020-11-23T03:04:00+09:00
2020-11-23T03:04:47+09:00
2020-11-23T03:04:47+09:00
fibich
日常の話
これまでの生活を考えると和式の生活が体に良くなく、負担をかけているものだと思っていた。確かにその通りだとは思うが最近では本当にそれだけなのだろうかと考えることも多々ある。そうでなければどうしてここまで腰痛がひどくなったのか自分でも釈然としない。
これまでの生活は日中できるだけ起きていた。これは入院時からそうしていた。しかし退院後は入院時とは事情も違うのでより一層安静を心掛けるようにしていた。その際に問題となるのが和式の生活である。
今日ベッドがやってきたことで寝起きは格段に楽にはなった。これを機に座る時間は減らして寝たきりで安静を保つ生活へとシフトしていこうかと考えている。多少の安静から骨の再生を待ち、まずは痛みを和らげる事に専心したい。そのためのベッドでもある。
我が家の狭い部屋には大きすぎた
現在の僕の病状はもはや脊椎炎ではなく、圧迫骨折と同じような状態だ。内科の問題はすでに治癒に向かい、かなり順調である。腰だけが遅れを取っているのだ。とにかく多少腰痛が和らがないと退院当初はできていたことができないままになってしまう。それでは何のために入院をしたのか、つらい手術を受けたのかわからない。腰椎の再生と治癒にはかなりの時間を要するのはわかっているので「もう一ヶ月経ったのに」とは考えず「まだ一ヶ月しか経っていない」と考えなくちゃいけないのだろう。
さて、実際にベッドに寝てみると思いのほかマットレスが柔らかく身体か少し沈みがちになる。あれだけお店でいろいろと横になって比べてみたのにこの結果だ。何か敷物か薄い布団でも敷いて調節しないといけない。掛け布団が重くてこれまでもずっと負担に感じていたが、ベッドに重たい掛け布団は思いのほか押し付けられ感が増して息苦しい。これも近いうちに改善が必要。そしていい機会なので枕も変えようかと思っている■
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得も言えぬ親近感
http://sonneteer.exblog.jp/240680788/
2020-11-10T12:01:00+09:00
2020-11-10T21:18:18+09:00
2020-11-10T12:01:30+09:00
fibich
日常の話
今から20年ほど前に伯母の家に滞在していた時はこのスクラントンという町には頻繁に連れて行ってもらっていた。伯母も運転ができるが、伯母のダンナが好きだったからだ。ちなみに伯父のことをいつも親父と呼んでいた。この親父が暇になるとよく伯母と僕と当時はまだ3歳だった従兄弟の長男アーロンを連れてスクラントンにあるスチームタウンにあるマーケット・プレイスというショッピングモールに連れて行ってくれたものだ。
スチームタウンのマーケット・プレイスは規模的にはそれほど大きなものでもないのだが、動く巨大な恐竜のオブジェがいくつかあってアーロンはそれが大好きだった。僕もその中にあるGAPでは行く度に買い物をしていたし、アーロンを連れてトイザらスなどにも行ったものだ。日本では全然感じないわくわく感があった。
さらにスチームタウンには博物館もあり、中でも鉄道博物館は相当有名なものらしい。親父がメカや古いもの好きだったので連れて行ってもらったことがある。こちらは鉄道には全く関心がないのだが、それでも展示されている車両や蒸気機関車などを見ると展示数から動態保存の車両までとにかく圧倒されてしまった。世界最大のSL「ビッグボーイ」も展示されていて、こればかりは本当に圧倒された。でかい、日本の蒸気機関車が模型のように感じられるくらいの大きさだ。他にも鉱山博物館などもあって実際に使っていたトロッコに乗って鉱山に入れた。面白いもの目白押しな場所でもあった。3年前の再訪の時は目的が全然違っていてスチームタウンには行かれなかったが、こういった場所こそアメリカっぽいなと感じる場所でもあった。
スチームタウン国立歴史博物館のサイト。このページの下の方にビッグボーイのリストアによる展示中止の見出しがある
スクラントン、スチームタウンといった懐かしい名前をふと思い出す。間違いなく僕が大好きだった場所だ。GAPで服を買ってトイザらスでトイストーリー2公開間近のニュースを知り、書店に行ってガイドブックなどをあれこれ見たり、日本ではまず手に入らないようなライターだのナイフだのが驚くような値段で当たり前のように売られていたりと、まるで夢のような場所だった。
そうか、スクラントン、バイデンはそこで生まれたのか。(ただし10歳でデラウェア州へ引っ越したらしいが)そう考えるとにわかに親しみを感じてしまった。
米国大統領にはそれなりに魅力を感じる。例えばオバマならその政策と演説、その前のブッシュは最初こそ大嫌いだったがその後のテロリストに対する毅然とした態度を見ると親しみという程ではないにしろ「あ、ちゃんとやってるんだな」と感じさせてくれたし。今度のバイデンはどうなるのかわからないけど自分が好きだった場所の出身という全然政治とは関係ない側面で親しみを感じてしまった。しかしバイデンもそうだけど副大統領のハリス、入院していたときに演説を見たのだがかっこいいなぁ。絶対次期大統領(次期でなくても良いが)になってもらいたい。
ペンシルベニア州はもともとエネルギー産業で栄えた言うなればオールドタイプの州だ。州のニックネームも"State of Key Stone (石炭の州)”というくらいである。今回の選挙でもなかなか決着がつかなかったのはエネルギー政策という面ではトランプの方がバイデンよりも期待できたからなのだと思う。もともとは民主党の大票田だった場所だ。東部には炭鉱がいくつもあり、当時は使用されていた鉄道の跡が残されている。日本では北海道みたいな場所でもある。主要都市というと東部にフィラデルフィア、西部にピッツバーグ、あとは学校の社会の授業で習うレベルの町などない。入植時代はほとんど森だった場所だ。英国から入植してフィラデルフィア市を作ったウィリアム・ペン(Penn)の森(Sylvania)という意味でPennsylvaniaという名前の主が生まれた。本当に森だらけだ。ドラクエで町と町の間は何もない、そんな例えが当てはまるくらいだ(日本では北海道の地方がそんな感じかな)
伯母がずっと住んでいたこともあってペンシルベニア州には親しみもあったし、自分の知っているアメリカはほとんどがペンシルベニアだ。他の場所にはあまり行っていないということもあるのだが。一時期はいつかアメリカ50州ちゃんと見て回りたいとも思ったのだが、こんな身体になってしまってはそれももう叶うこともない。それでも一度はじっくりと滞在をした町、場所を懐かしむこともある。今度の大統領選挙ではそんな大好きな場所の名前を頻繁に耳にした。アメリカの親父も去年とうとう亡くなってしまったが、それでもまだ家族と呼べる人がこのペンシルベニアを中心としたいくつかの州に住んでいる■
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鎌倉へ
http://sonneteer.exblog.jp/240678212/
2020-11-08T21:37:00+09:00
2020-11-09T19:08:56+09:00
2020-11-08T21:37:45+09:00
fibich
わんこといっしょ
ツイッターによれば店主が今年の九月に急逝され、閉店に到ることになったと言う。この店主のおそらくはお嬢さんとみられる方が実は我が家のわんこのファンでいてくださり、お店の前で写真を撮ったのをママがブログに載せたら反応があったらしい。といってもこんなつながりはつい1年ほど前からのことではあるのだが。御成通りに行く折には挨拶にも行き、わんこを可愛がってもらっていた。
今年はCOVID-19の影響で外出も極力控え、鎌倉なんて近場なのに全く立ち寄ることもなかったのだが、夏になって僕が入院してしまい、くろぬま閉店のニュースは入院中に届いてきた。なんとか閉店する前に間に合ってもらいたいと思ったがなんとかギリギリ間に合った。
平時は腰痛が酷くてとても外には出られないのだが、なんとか体調を整え、薬を使うタイミングを計算して家を出発。本当なら電車で行くのだが今回は車。車に乗っている時は腰痛が悪化しないからだ。鎌倉に着く前に昼食をとって薬を飲むタイミングで昼食をずらす。
昼食は戸塚や中田にもある家系の「源泉」が鎌倉の梶原口にもあるという情報を得てそこでラーメンを食べる。家系ラーメンは退院後初めて、ラーメンそのものも退院後2度目である。
「源泉」は塩ラーメンがおすすめ
久しぶりの家系ラーメン、感無量だ。それに源泉はわりと人気もある店。ただし写真のラーメン(並)にライスをつけたらもうすっかり満腹になってしまった。
梶原口から御成通りまでは市役所の横を通って鎌倉の町に入るが、流石に鎌倉は人が多かった。運良く御成通りの近くの駐車場に車が駐められたのでそれほど歩くことなく目的のくろぬまへ。挨拶をして写真を撮らせてもらって記念にお店に売っていた風車を買って帰った。お別れはなんともあっけなかったがくろぬまというお店は無くなってもお店の人は我が家のわんこの日記を読んでくれるのだろうなと思うことにした。
ありがとう、くろぬま
本当ならデジイチを持って行ってちゃんとした写真を撮りたかったのだが、今の自分では腰を落とすこともできずただ立っている姿勢でカメラを構えるのが精一杯だった。なんとも寂しい限りだ。
せっかく御成通りに来たので同じようにわんこをかわいがってくれるトルコ雑貨の店「ミモザ」にも立ち寄る。ここではキュタヒヤ(トルコ中西部)の陶器とチャイクル(トルコのブランド名)のチャイの葉を買った。このお店との繋がりは我が家のわんこの名前が三頭ともトルコ語からとったところから始まる。おかげでお店の人は3頭とも名前を覚えてくださっていた。わんこもたくさんかわいがってもらいこちらも再会を喜ぶような感じでもあった。そのくらい御成通りは久しぶりだったのだ。
最後は御成通りに行くと必ず寄るカフェ"The Good Goodies"で、これまた定番のマサラチャイを飲んで帰った。お店はちょっと来ない間に拡張され、外でも座るスペースが増えていた。そして日曜日には花を売っているところは変わっていなかった。
ミモザで買ったキュタヒヤの絵皿
上のお皿はトルコらしいチューリップ柄の絵皿で、紺色と白のコントラストが柄を際立たせていてほとんど即決で買ってしまったようなものだ。
トルコではどこでも見かけられるブランドのチャイ
上のチャイはトルコに行けばだいたいの場所で見かけることのできるチャイクルというメジャーなブランドのチャイ。産地は黒海沿いのリゼという場所。紅茶の種類で言えばアールグレイだ。トルコは紅茶の消費量世界一の紅茶大国でもある。このブランドの葉っぱが鎌倉で手に入るとは思わなかった。
そして…
くろぬまの店内はほとんどの物が売れてしまっていて、まだ残っている物を買ってきた。こんな風車であるがこういった物の方が後々まで思い出として残りそうな感じがする、そんな感じの古き良き時代の玩具屋だった。
今日は無理を押してまでも出かけて、ラーメンを食べて大好きな御成通りを散策し、知っている人との再会もあって思いのほか楽しい一日を過ごすことができたと思う。もっとちゃんと身体が動くようになったらまた必ず遊びに行きたい■
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その後の日記(5)
http://sonneteer.exblog.jp/240676789/
2020-11-07T22:48:00+09:00
2020-11-07T22:56:17+09:00
2020-11-07T22:48:54+09:00
fibich
日常の話
これまでの生活はちゃぶ台で食事をしていた。このちゃぶ台だってこだわりがあって丸くなければダメ、そして直径も80センチ以上の大きなもの。結婚して家を買ってまずしたことがこのちゃぶ台探しだった。あちこち方々探して八王子の村内家具でようやく見つけたものだった。理想の和式ダイニング生活はその後ずっと続いていた。まさか自分がこんな身体になるなんてことは考えてもいなかった。
ただしダイニングに関しては急場しのぎでもなんとかなるが、一番急がなければならないことがあった。それは寝床だ。これまでは畳に布団を敷いて寝ていたのだが。今の状態では脊椎に多大な負担がかかる。それは寝起きの動作である。絶対にしてはいけない運動が必ず伴うのだ。今は退院しても脊椎は骨折状態に等しく、真っ直ぐさせた状態を保たなければならない。入院中にベッドで寝る時でさえ寝方のコツをリハビリで教わるくらいで、寝起きは慎重にしなければならない。布団に入る動作も教わるには教わったができるだけ早くベッドを用意する必要はあった。
これまでの僕の生活の中でベッドというものはほとんど存在せず、ベッドでの生活が定着したことはなかったのだが今回はそうも言っていられない。部屋にベッドを入れなければならない。まず最初に僕の部屋には冬タイヤがあったのだが、これを手放して部屋のスペースを確保しなければならなかった。こんな病気になる前は1年に2度タイヤ交換を行っていて、その度にタイヤの上げ下ろしをしていた。我が家はエレベーターもない団地の4階なので年に2度の大イベントでもあったが、もうこんな体ではタイヤなど運べない(今は2リットルのペットボトルでさえも片手では持ち上げられない…本当に終わった人間だ。)ため、ディーラーに勤めている友人に連絡をして持っていってもらった。高校時代の古い友なのだが、変わり果てた自分の姿を見てやっぱり多少は驚いていたようだ。
そして今日近くにあるニトリにベッドのマットレスを見に行った。いつもと違ってマットレス選びも慎重にしなければならなかった。別にニトリでなくてもいいのだが。ニトリが一番手っ取り早いし、IKEAだと自分で持ち帰って組み立てなければならない。今の自分にそんなことはとてもできない。となるとIKEAの場合は「商品価格の2割+5000円」で組み立てサービスをしてくれるのだが、仮に5万円のベッドを買ったとすれば組み立てだけで1万5千円かかる。それにマットレスは別だ。
そんなわけでニトリが近くにあることもあってマットレスを見にいったのだが、ただ見たって違いのわかる代物でもなく、触って座って寝てみないといけない。そして知ったことは座って沈むマットレスでも寝てみるとやたらと高反発だったりする物もある。あれこれ寝転んでは感触を確かめながらマットレス選びをしたが、寝たり起きたりの動作そのものが腰にも障るため買い物をしているのにもかかわらず苦痛な時間だったことは言うまでもない。
マットレスと一緒にフレームもあれこれ見たが、狭い部屋に収納スペースを確保したいので収納型のものを選ぶ。実際に店頭や事前にはWebも見ていたが、いろんなタイプのベッドがあり、中には非課税の介護用ベッドもあったのだが電動ベッドはマットレスがどれも固くて薄かったので今回は候補にはならなかった。もう一つ電動ベッドだと収納スペースが確保できない。結局一番シンプルで収納もたっぷりできるシングルベッドに落ち着き、写真のような組み合わせのベッドに決めた。下の写真はマットレスも選んだものである。こういった組み合わせは店員さんにお願いするとマットレス交換などもしてもらえる。
結局マットレスは「ふつう」の固さのものを選んだ。ベッドフレームもやたらと引き出しがあって少し高めのベッドにした。頭の部分には照明もあってこれが気に入ったし、色は最初から白が良いかなと考えていたところ白が一番納期が早いということでほぼ即決。
このベッドが来ればおそらくは脊髄が落ち着くまではほぼ寝て暮らす生活へとシフトしていくのだろう。とにかく今の畳に布団ではトイレに行くのでさえも一仕事だし、その度に腰を痛めるリスクもついてくる。これが終わると今度は長年愛用していたちゃぶ台を手放してテーブルをダイニングに入れる予定になっている。そうでないと自分の身体には悪いとはわかっていても、やっぱり和式の生活をやめることは残念でならない。せめて自分専用の小さなテーブルだけでいいのでちゃぶ台はそのまま残せないか考えてはいるのだが。
こんなつまらない病気一つで自分の慣れ親しんだライフスタイルを変えなければならないこと、そしておそらくは働けるようになっても今の仕事はもうできないような気がしてそれがとても寂しい■
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その後の日記(4)
http://sonneteer.exblog.jp/240676258/
2020-11-07T17:10:00+09:00
2020-11-07T17:18:12+09:00
2020-11-07T17:10:26+09:00
fibich
日常の話
正直言って入院中にすっかりCOVID-19については油断をしていたように思える。病棟という特別な環境下、病室を出るときはマスク着用が義務づけられては居るが、病室ではマスクをほとんどつけてなかった。そんなこともあってマスクは出かける時につける、それ以外はつけない生活習慣が身についてしまっていたし、手洗いにしても至るところに消毒液があるので手荒いをする習慣はすっかり無くなってしまった。もう一つには手洗いをする姿勢が腰に多大な負担をかけるのでできるだけ消毒液で片付けてしまった感じでもある。そんなわけでもないだろうが、入院中はCOVID-19に対してかなり油断をしていたように思える。
それが退院したらどうだろう、事態は全く変わっていないで寧ろ悪くなっているようにさえ思えた。入院中はテレビをほとんど見なかったので感染者の状況なんてものはラジオでちょっと聞く程度だったし、GoToキャンペーンのニュースなども耳にするのでてっきりCOVID-19の第2波は収束傾向にあったものだとばかり思っていた。ただ手術後数日救急病棟に居たときにはICUの情報も耳にしていて(看護師が喋ってばかりいるので情報はかなり入ってきた)それによればICUでも数人COVID-19陽性者がいて、今後病棟にも割り当て分が設けられるのではないかという話を耳にした。しかし自分が一般病棟に戻るとそんな話はどこ吹く風で、一般病棟の整形外科、呼吸器外科の患者が入れ替わり立ち替わりの日々を送っていた。
それから間もなく戸塚区の病院でクラスターが発生したというニュースを知る。戸塚区の病院は自分が入院していた横浜医療センターをトップとし、いくつかの総合病院があり、さらに地域の町医者がある。そんなどこにでもありそうなヒエラルキーが存在していた。他所と違うのは横浜医療センターが戸塚区のみならず、他の区や隣接する藤沢市も受け入れている。入院患者もある程度のレベルに達するとこうした他の総合病院やリハビリ専用病院へと転院するか、僕のように家が近ければ自宅療養にしてとにかく病床数とある程度は確保している。
で、話はそんなヒエラルキーではないのだが、僕が8月に救急車に乗せられたときは専門医がたまたま医療センターにしか居なかったのでそこに運ばれたが、その前にも何度か通っては腰痛を訴えていたにもかかわらず的確な診断が下されなかったことから他の病院を希望していた。結局希望をしていた病院はその日担当の専門医師がいなかったので行くことができなかったのだが、その病院こそがクラスターを発生させた病院だった。それまでの間も救急病棟や一般病棟に居たときに家に帰らずその病院へ転院するという患者を何人か見ていて、病院を出ながら行き先が他所の病院ってのはなんとも不憫なものだが、その行き先でクラスター発生したのではと思うとちょっと気の毒でならない。
結果としては良かったのかも知れないが、最初は医療センターに運ばれる事には多少の抵抗を感じていた。ただし医療センターの救急チームが僕の病気を的確に診断してくれたのでそれはそれで良かったとは思っている。また医療センターでなくて別の病院に運ばれていたらCOVID-19に感染していたかも知れない■
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その後の日記(3)
http://sonneteer.exblog.jp/240656246/
2020-10-29T13:54:00+09:00
2020-10-29T13:54:08+09:00
2020-10-29T13:54:08+09:00
fibich
日常の話
社会復帰を目標に公共交通機関を利用するが、これまで当たり前にできていたことが全くできない。スマホでSuicaひとつ呼び出すのも一苦労。まごついていると後ろから「早くしろ、先に行かせろ」と野次も飛ぶ。本当に情けない。動けない自分にも情けないがこんな程度の低い人間しか住んでいない戸塚という場所は本当に情けない。
まずは散髪がしたかったので床屋へ、そこでもいろいろとつまづいてなかなかうまく動けない。しかも昨今の感染症対策で持ち物や上着などは一切持ってもらえない。つまり手伝ってももらえない。致し方ないことではあるがそれもこんな身体になって初めて気がついた事でもある。
一番感じたことは座れる椅子という物が本当にない。バスの椅子は低すぎて腰に悪い。床屋の椅子は深く沈み膝の方が高くなる。この姿勢で座るのは危険。散髪してさっぱりした後は区役所へ。しかし区役所の椅子も全く腰には優しくなく。座って順番を待つのは苦痛。これだけ座る場所で苦労するとは思わなかった。病院のデイルームにあったあの椅子も適当に選んで置いてあった訳ではなかったのだ。似たような介護用ダイニングチェアを発注した。
役所では二つほど用事があり、一つは介護用品を選ぶために理学療法士に出張をお願いして今の自分の動きを判定し、それに見合った用品を買う手伝いをしてもらうこと、もうベッドのない生活はできないからだ。もう一つはヘルプマークの申請だ。介護用品に関する相談は時間がかかり、また椅子が合わなくて楽に座れる椅子の場所で待機していた。大半はママが話をしてくれた。一方のヘルプマークは即発行してもらえた。ちょっとあまりに簡単すぎだなとも思ったのだが。
即発行されたヘルプマーク
用事は無事に済んだのだが、その時にはすっかり腰を痛めてしまいあとは悶絶の時間。帰りにドトールにも寄ったがここの椅子もまた腰には優しくなくてコーヒー一杯飲むのが精一杯。バスに乗って家に戻ると即鎮痛剤を使って安静にした。安静にするには横になるのが一番なのだが、そうすると起き上がるときがまた一苦労だ。
夕方はかかりつけ医に行く。車に乗って移動。車だととても楽だし、外で腰が痛くなっても車に戻って休んでいれば痛みは引いてくる。車のシートってのはつくづくその目的を極めているんだなと思った。(ただし調節も必要だが)
主治医に入院中の報告をして、退院後の体調に合わせた薬に変えてもらったが、身体そのものはかなり具合がよくなり入院の効果は抜群だったようだ。ただひとつ腰だけが取り残されている。そんなわけでこれまでの持病については薬もだいぶ減ってそれはそれでめでたし。ついでにインフルエンザ予防接種の予約もしておいた。今年はなかなか予約まで取り次いでもらえないようだったので助かった。
車で移動をしていると昼間の腰痛地獄からも解放され、夕食も外で食べようかということになり久しぶりに回転寿司へ。お寿司そのものが今年初めからまったく行かなくなっていたので久しぶりのこと。そして入院中もあまりお寿司が食べたいとは思わなかった。それだけ入院前から食べていない事に慣れていた。しかしいつもであれば軽く10皿は食べるところ、どう頑張っても6皿までしか食べることができなかったのは寂しい。食べる量の少なさは致し方なしとしてもネタの数が少なかったのが残念だ。
あまりに満腹になったので車から降りると夜の歩行訓練をしてから家に戻った。一日の歩数は4,000歩程度、ちょっと歩きすぎかなとも思いながらも、食べた分の運動もしないとコルセットがすぐにきつく感じられそうな気がしてならない。その後は疲れたので早々に寝てしまった。寝るときだけ腰痛から解放されるのはありがたいかも、入院前は腰痛で目が覚めるくらいだったから多少はその時よりはいろんな意味でマシにはなっているのだろう■
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その後の日記(2)
http://sonneteer.exblog.jp/240654388/
2020-10-28T10:31:00+09:00
2020-10-28T12:29:28+09:00
2020-10-28T10:31:42+09:00
fibich
日常の話
ラジオは午前中は主にQR、午後になるとKR、夕方はLFを中心に聴いていた。ニュースなども扱うバラエティ番組がそれほど脱線もせず聴いていられる範囲に収まっていた。夜の番組はちょっと自分にはつまらなく感じられたし、もう何度も書いているが午後のR1もまた聴くに堪えられない番組を平日には流していた。ラジオは建物の中という事もあり、ワイドバンドFMで聴いていた。これだとR1は聴けない。昼食時に部屋に戻ったときはAMでR1が聴けたのでその時間はニュース+「昼のいこい」が楽しめた。この地味なコンビが昔から好きだった。「昼のいこい」が終わった12時半からもかつてR1では「旅するラジオ」という楽しい番組を放送していたのだが、今のR1はそれもスパッと捨てられてしまって即座に午後のつまらない時間へと突入していく。とにかく今のR1、午後は底抜けにつまらない。聴いているだけで時間の無駄。内容もスカスカで聴いて得られることもまるでない。もっと書きたいところだがこの辺にしておく。早急に番組を作り直してもらいたいものだ。
さて、こうして部屋の中やデイルームなどでラジオを聴いて、できるだけ自分のペースを保つことが自分にはとても大切なことだった。ラジオを聴いていない時間帯は自分のiPhoneに入っているライブラリから音楽を聴いていた。入院当初は Primeやオンラインラジオでトルコや韓国のラジオを好んで聴いていたが、これが結構データ量を消費するので断念。夜の7時から8時まで韓国のCBS音楽FMだけを聴いていた。
このCBS音楽FM、ちょうどこの時間は洋楽の時間帯なのだが、トークがあって音楽が流れる。言うなれば80年代くらいのFMによくあるスタイルだった。(FM横浜ではそういうスタイルがまだ絶滅していない)これがとにかく耳に心地よかった。韓国語もあまりわからないので直接脳まで言葉も届いてこない。また選曲もとても良かった。
この時間帯の8時から番組が変わるのだが、そのオープニングの曲が昔からお気に入りだった。もうかれこれ8年以上も前から番組も変わっておらず、平日休日問わず夜の8時になると決まったメロディーで番組が始まる。8時からの番組は主にKポップがメインだが、あまり最新の曲は流れず、日によっては30年以上も前の韓国版懐メロが流れることがある。このなんとも言えぬ雰囲気がオープニングの曲からそのまま続いてきた時はとにかく至福の時間にも感じられた(ただしそんな事はそれほど多くはなかった)
最近になってこの大好きなオープニング曲がわかり、早速検索してアルバムが手に入った。それはマイク・オールドフィールドの”Voyager"というアルバム。このアルバムの2曲目にある”Celtic Rain"という曲だった。
Mike Oldfield "VOYAGER"
マイク・オールドフィールドはまさに「奇」の字の似合うアーティストだ。有名な「チュブラー・ベルズ」や「クライシス」というアルバムはまさに「奇版」と呼ぶべきアルバム。そして「クライシス」の中に収録されている「ムーンライト・シャドゥ」は大ヒットもした。そんなマイク・オールドフィールドがケルティックをテーマとして作ったアルバムがこの「ヴォイジャー」である。ところがケルティックにこれまでのノリの音楽を重ねて独特なアルバムにはなったらしいが、酷評されてあまり日の目を見ないアルバムのひとつでもある。とは言ってもケルティックの雰囲気にどっぷり浸れる完成度の高いアルバムには間違いない。酷評されたのはこの人にしてこのアルバム程度で収まるものではないだろうという意味なのだと思う。たまたまアルバムのタイトルがVoyagerだったために「これではVoyagerに出られない」という酷評がつけられのだそうで(Wikipediaにはそう書いてあった)
とは言ってもこのアルバムの一部の曲には奇才ぶりもきらめかせている。とにかくこのアルバムが気に入って入院中は何度となく聴いていた。何年も前からメロディーだけとても気に入っていた"Celtic Rain"の他にも耳に心地よいメロディーが数多く含まれ、まさに癒やしの時間を作り出してくれる。ただしこの雰囲気がわからない人には退屈極まりないことだろうし、この人の作品に魅せられた人たちにとってはどことなく拍子抜けするのではないだろうか。
さて、このアルバムについてはここまでにしておくが、こんな感じであまり刺激のない音楽を中心に聴いていた。他には冨田勲だとか、90年代の細野晴臣、そして時を同じくして脳腫瘍で入院されていた高橋幸宏のアルバムなども聴いていた。
とにかくこの入院している間、音楽やラジオは自分には欠かせないものだったことは確かで、音楽まで取り上げられていたらどうだったかなと思う。またこの時初めてワイヤレスイヤホン(耳につけるだけのタイプ)を使ったが、イヤホンは進化してるんだなと思った反面、自分の耳の形はやっぱりおかしいみたいで(特に右耳が)よくはずれて落ちるのでこれは怖くて使えないなと思った次第。
で、退院した今でもこれらのラジオやアルバムが生活の一部になっている。それは入院中の生活があまりにルーティン化しやすかったことと、自分でも身体に負担がかからぬように生活をルーティン化していて、この時間にはこれを聴き、この後はこの運動をするなんてことを一日を通して自分で決めていたこともあり、それが未だにやめられていない。それもおそらく退院しても入院時とできるだけ変わらない生活を心がけ、動きもかなり制限されているからなのだと思う。退院できたとしても生活と動きはまだ入院している時と変わらないのだ■
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その後の日記(1)
http://sonneteer.exblog.jp/240653871/
2020-10-28T00:25:00+09:00
2020-10-28T08:56:49+09:00
2020-10-28T00:25:44+09:00
fibich
日常の話
我が家での生活は基本的に和式スタイルだが、これが腰には致命的である。特に寝起きが顕著な例だ。ベッドの寝起きと違ってどうしても腰を曲げなければならず、そこで腰を痛めてしまう。一度腰を痛めるとしばらくの間は痛みに耐えなければならない。
とまあ、こんな不安材料なら他にもいろいろとあるのだが、まずはベッドを検討している。僕はベッドというものが嫌いでこれまでの生活でベッドが定着した試しがない。しかし今回ばかりはそうも言ってはいられない。そのほか和式の生活には必要のないテーブルや椅子も一人分とは言え用意しなければならない。(どれもあまり好きじゃない)
退院した日はとてもいい天気だった。これまで病室にいると外の天気はほとんどわからず、曇っている時や雨が降っている時くらいしかわからなかった。
退院の日はとてもいい天気だった
入院中はあれもしたいこれもしたいといろんな欲求に囚われていたが、その中でも納豆を食べたい、大好きなラーメンが食べたい、わんこをかわいがってあげたい。この三つの欲求は尽きなかった。退院した足で近くのマクドに行き、その日のお昼はハンバーガーだった。これはそれほど待ち望んでいたわけでもないが、帰り道にあったのでちょっと立ち寄ってみた。それよりもやっぱり納豆とラーメンだ。
以前の日記にも書いたことだが、実は病院の院内食に納豆は禁物で、入院中は納豆が全く食べられない。理由は納豆に含まれたビタミンKが抗凝固薬の働きを阻害させるらしい。血液をサラサラにさせる納豆に血液をサラサラに維持する薬の働きを阻害させる物質が含まれているというのもなんとも疑ってしまうのだが、病院内で納豆が食べられないのは現実だ。そんなわけで家に帰ると納豆3パックを食べたのだが、それだけでお腹いっぱいになってしまった。2ヶ月の院内食生活で胃袋も小さくなっていたのである。そんなわけでラーメンは翌日持ち越し。
ラーメンはやっぱり30年以上も食べ続けている藤沢の「街道や」の味噌バターラーメン。これがどうしても食べたかった。普段は大盛りで食べていたのだがこの日は中盛り。それでもかなりの食べ応えがあった。しばらくは小食の状態が続くのだろう。
藤沢「街道や」の味噌バターラーメン
健常な頃はお店に行けば食べられるものだったが、食べられないとなるとどうしても食べたくなるものだ。納豆もまたそんなもの。入院をすると食事は本当にままならなくなる。いかに自分が欲求に従って行動していたか、言うなれば自由だったかと言うことがわかる。
25日はチャイの「うちの子記念日」。退院した早々にいつもお世話になっているCafe SunnyDayへ行ったが、25日も二日続けて行くことに。「うちの子記念日」というのはその名前の通りでチャイが我が家にやってきた日のこと。ペットを迎えるとこの日は特別な日になる。なお英語では"Gotcha Day"と言ってやっぱりお祝いをする特別な日だ。
チャイの「うちの子記念日」
この日はママがわんこのために作ったシャツを着させた。本当なら夏場のお出かけのためのものだったのだが、僕が入院してしまってどこにも出かけられなかったこともあり、今回が初の出番だった。
そんなわけで退院後の2日間はこのほかにもホームセンターに行ったり、ニトリに行って必要になる家具を見たりとあれこれ忙しかったのだがそんな忙しいのも嬉しかったかも知れない。ただし疲れやすくなり、無理をすると腰にも影響があるので休み休みといった感じでもある。
月曜日以降寝起きで腰を痛めては鎮痛剤のお世話にどうしてもなってしまうのだが、それでも入院中にすっかり習慣になった食後の歩行訓練を「夜のお散歩」と称して続けている。明日はママが半日の休みをもらったので役所にヘルプマークをもらいに行き、念願の一つでもあった散髪もしたいと思っている■
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腰痛顛末記 (終)
http://sonneteer.exblog.jp/240645343/
2020-10-22T20:29:00+09:00
2020-10-26T00:47:01+09:00
2020-10-22T20:29:23+09:00
fibich
日常の話
もうすぐ退院するよ!
さて、長い病院生活から腰痛の実情までいろいろと書いてきた最後は、「退院」について。と言っても現実はそれほど甘くはないのでそのところも自戒の意味も含めて書いておく。まず端的に書けば病状は腰以外はほぼ快癒している。これは以前も書いたと思う。今回退院が延びたのは火曜日の血液検査で白血球の値が増えたことだ。この数値がちょっと上がっただけで水曜日のはずだった退院が土曜日にまで延びる。病院って言うのは恐ろしいものだ。腰以外は治り、その腰のために入院をして治療を続けていることになるが、これって通院でも良いのではないかと思っていた。
腰椎の損傷箇所(以前は壊死と書いていた)は変わらずだ。進歩がないとこれまで思っていたのだが、炎症が治まりその後は悪くなっていないということでもある。そんな中先週から強力なコルセットを装着するようになった。寝るときもつけたままにしている。これの効果が見えてくるまでにはもう少し時間が必要だが、今現在は入院して続けている治療というのが考えてみるとない。リハビリも十分だし、点滴も終了している。たまにレントゲンに呼び出され、そうでないときはデイルームというパブリックスペースで座って一日を過ごしている(大部屋にいるのが嫌だから)。
二代目コルセット「ブリキの樵2号」
そんなところに大部屋の悩みがのしかかってきた。同室に声が大きくて言葉遣いがちょっと乱暴なオッサンがいて、どうにもそれが嫌だなと思っていた。夜中はいびきが特大だし(でも他人のいびきにはさすがに慣れた)、夜中、特に明け方に何やらゴソゴソやっていたり、とにかく音を立てることに対して気配りがない。昨日も書いた実習生と病室の中で大声で話し込んだりと一番苦手なタイプだ。日に日に嫌になっていたのが、今日はリハビリで病棟の不満を言っていたのを耳にしてしまいさらに嫌になってきた。
リハビリから戻ってくると病室で実習生とまた大声で話をしていたので部屋を飛び出し、担当の看護師に実情を訴え、まず実習生に喋らせない、部屋を別々にしてくれとわがままを言ってみた。
これが婦長の耳に届き、婦長が直々に話を聞きに来てくれたので実情を訴え、実習生に不必要で冗長な会話を控えさせ(多少のコミュニケーションは必要なのはわかるが、ひどいと20分近く話し込んでいる)、部屋を離すように要求、さらに今の治療方針にも不満があったのでこのペースなら通院で良いのではと訴えた。婦長はしっかり話を聞いた上で下がっていったが、その時はわがまますぎだなと自分でも反省。これまで病室で何の不満も言わずにいたけど、今回はちょっと我慢ならなかった。
病棟での婦長の力は絶大だということがわかったのはそのすぐ後で、まずは担当医が飛んできた。その件で話がしたいが自分はこれから手術があるので終わったらまた来ると言って下がっていった。さすが婦長、めったに顔は合わせないが婦長への直訴は伝家の宝刀だなと思った(ただし乱用はできないだろうが)
その後ナースステーションにいる事務さんから退院の通知をもらう。これまでも何度か退院の話や外泊の話もあったのに全てがナシになっているのでもしかしたら今回もとまだちょっと疑ってはいる。しかしその後夕方になってママが見舞いに来たときに担当医が二人して現状の説明をしてくれた。決して楽観的ではなく、手術をした方が良いのか悪いのか自分たちでも決めかねている状態だということを正直に話してくれた。壊死した骨はまだ再生には入っていない、火曜日に血液検査で白血球の数値も高い。それが退院を延ばしていたが今朝の検査では元に戻っていたことと、骨は予断を許されない状況だけど、その後にコルセットを新調していることや、何よりも僕が婦長に訴えたように入院をしている必要がないと判断が付き、しばらくは社会復帰はできないが自宅安静、毎週通院することで退院が決まったようである。しかしその後事態が悪化するとどうなるかという話もしっかりと聞かされた。それはここでは書かない。とりあえず言ってみるものだなと思った反面、言っていなかったらまた退院が延びて悶々とした日々がさらに続くことになっていた。
今回同室のこのオッサンがちょっと悪者にはなってしまっているが、実際にうるさいからしょうがない。しかしそのオッサンが今日病室で転倒をしたときはすごい音がしたので無意識に飛び出して手助けをした、その時初めて顔を見て言葉をちょっと交わした。
退院は土曜日なのでそれまでは我慢が必要だが、もうかれこれ2ヶ月も入院して一日くらいの我慢も何もない。あとはこの一日でよほどの事が起こらない限りは今度こそ退院できると信じている。
そういうことである意味厳しい条件付きの退院となり、当たり前だが腰痛もまだまだ続く。もともとこの腰痛のせいで入院し、病気を突き止め手術をし、2種類の装具をつけ、杖をついて歩くようになってしまった。それでもまだ腰痛が続くことが悔しくてならないが、もし退院もできなかったらもう限界のレベルにまで達していた。婦長は退院が何度となく延び、外泊もできない、そんな現状も知っていたようである。
それにしても今回は事務さんから退院の通知を、その前は日頃から「朝倉いずみ」と呼んでいるナースから、どうにも担当医からではなくてそのほかの人から退院の兆し、知らせを受けている事もおかしな話だなと思う。ま、無事に退院できることだけをこれから残された時間、祈り続けることにしたい。家に帰っても何もできないけど、少なくても心安らかに過ごすことはできるだろうから。何よりもわんこの待つ家に帰れる。それだけでも嬉しい■
【おことわり】
現在「看護婦」という呼び名は「看護師」と変わっている。それはこの仕事が女性だけの仕事ではもはやないからだ。それに伴い現在ではその看護師の責任者は「婦長」から「師長」へと変わっている。この呼び名が現在のこの職業に対する適正な呼び方ではある。ところが僕が入院していた横浜医療センターでは看護師という名前はすでに広く浸透しているがその責任者は「婦長」と呼ばれている。これにはおそらく理由もあるのだろうから病院でそのまま呼ばれている通りにこの日記でも書かせてもらった。尚、この文書を以て自分の文書が間違いではない事や、当該施設の職業に対する呼び名の認識について言及する意思は一切ないことも記しておきたい■
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腰痛顛末記 ⑭
http://sonneteer.exblog.jp/240643579/
2020-10-21T20:03:00+09:00
2020-10-21T20:03:19+09:00
2020-10-21T20:03:19+09:00
fibich
日常の話
先日ニュースでもやっていたのだが、看護学校などで実習を受け入れてくれる学校が少なくなっているのだそうで、このコロナ禍で医療機関は極限状態、そんな臨戦態勢下で実習も何もない。
ただ僕もこの世界の事情には全く詳しくないので余計なことはかけない。今現在入院している病院には付属の看護学校があって、ちょうど今実習生がやって来ている。彼らは普通のナースと違った色の白衣を着ているので(ややグレーがかったもの)すぐにわかる。この病院にこんな学校があったと言うことは実は知っていた。数年前ちょうど学祭をやっていた時に横を通ったことがあるし、それこそ今の横浜医療センターになる前、国立横浜病院の時から看護学校があって、その時には寮もあり、さらに土日になるとその寮から騒ぎ声が聞こえてくるなんてこともあった。もう遠い昔の話。
長い入院中とは言え、実習期間に当たるというのはやっぱり偶然というか何というか、そんなわけで日々実験台にされている感じもする。聞くところによるとこの看護学校は3年制で、実習というのは毎年あるのだそうで。ということは普通だったら三回も実習があるという計算になる。そして三年目ともなるともう国家試験目前らしい。
この時期になると病棟の看護師たちもああ先輩なんだなという顔をしてあれこれ指導をしている。(それを横で見るのも面白いのだが)まるでカルガモみたいに看護師にくっついて回る実習生が足を止めるたびにポケットからメモを出して何か書き込んでいる。食事の配膳や血圧、体温計測などもこのところ実習生がやる。そして曜日によっては夜勤実習なんて物まであるのだ。
担当の看護師は「看護師にだけはなってもらいたくないんだけどね」などと笑いながら言ってはいるが、どことなく照れ笑いのような感じにも見える。そして日頃から「朝倉いずみ」と呼んでいる看護師(複数いる)にもやっぱりカルガモの雛みたいに実習生がついて回っている。実習生はとにかく真剣だ。そして看護師たちも実習生が来たからと言って仕事量がへって楽になるだの、仕事の一部を実習生にさせるなんて感じでもない。こうして3週間の実習期間が各学年でちょっとずつズレながら続いている。恐らく先月下旬あたりから続いていたんじゃないかな。最近は男性の看護師もいるにはいるが、実習生はほぼ全員女性だ。
一つだけ言えることは自分も実習という物を経験して今の職業に就いている。それが普通の人とは違っている。実習という機会にいろいろ考え、自分の職業にしようと考えたり、その逆で自分には向いていないと悟ることもある。実習で実技を学ぶのは当然だが、そのあたりのこともこの実習中に考えてもらいたいなとふと考えていた■
一方こちらは早く退院したいんだけどね
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腰痛顛末記 ⑬
http://sonneteer.exblog.jp/240634511/
2020-10-17T20:16:00+09:00
2020-10-17T20:16:22+09:00
2020-10-17T20:16:22+09:00
fibich
日常の話
おそらくは退院しても杖の世話にはなるだろう。腰骨に大きな金具が入り立っている姿勢を保つのがつらい、となると社会生活の中では支障を来すことばかりなので「ヘルプマーク」の申請も考えている。これに関しては恥ずかしいとは思っていない。仕方のないことだ。しかしいざ申請してそれが手に入ったところで、それを実際にバッグなり何なりにつけることができるかというと相当な勇気が必要な気がする。しかも杖をついてこのヘルプマークはやっぱり五十代には早すぎる。
で、以前も書いたがリハビリのPT(理学療法士)に杖について相談をし、ノルディックウォーキングのスタイルがいいだろうという提案を受け、すぐにノルディックポールを手配したのが今日届いた。思った通り非常に細いものだったが、試しに歩いてみると想像以上に楽に歩ける。歩行器ほど負担の軽減にはならないと思うが、リハビリ室で使った普通の杖よりはずっと支えになっている。驚いたな、これは実際に試してみないとイメージだけでは効果がわからないと思う。
今日やってきたノルディックポール(Amazonで3,000円)
前もって歩き方のコツなども簡単に学んでおいたが、これは身体の側面よりも前に出して歩くものではなく、側面あたりに構えて後ろへ押すように歩くのだそうだ。さすがに階段や凹凸面は病院にはないのでただ廊下を歩いてみただけなのだが、これまで控えていた歩行訓練コースの1往復くらいは簡単に歩けた。同時に全身の筋肉、特に胸のあたりの筋肉を使っているなと感じた。
このウォーキングも良いことばかりではなく、杖の長さを間違えると腰への負担が大きくなってしまうリスクもあるというので、とりあえずは「身長✕0.68」の長さには気をつけたいと思う。とりあえずこれで爺さんみたいな杖歩行は避けられるかも知れない。しかしいくつか気が付いたこともある、雨の日はどうするのだろう。荷物を持つときはどうするのだろう。お米買って帰れないな、などなど。
それは致し方ないか、長い時間かけてできるだけ元の状態に戻ってくれるものだと考えたい■
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