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幻想と日常 ~La Fantazio kaj la Kvotidiano

遍路日記2015夏 伊予札所紹介④

 この夏の伊予一国打ち遍路旅で打った札所。今回は小松・西条の札所を紹介します。小松は今治から南に20キロほど離れた町。今でこそ西条市の一部になっているが平成大合併の前は小松町という町だった。地元の小松高校が去年の夏の甲子園の愛媛代表で出場もしている。

【札所60番 横峯寺】
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 ここからは小松の札所が始まる。と言ってもその最初はこんな山の中と言いたくなるような札所の60番横峰寺。今から30年ほど前は車遍路も麓に車を置いて歩かねばならないお遍路ころがしが残っていた。今でもここに到達するにはそれ相当の苦労は覚悟のうえである。というのも位置から言えば石鎚山の中腹だ。ルートは車やバイクの場合、西条の近くから石鎚登山道に入り、途中から平沢林道へルートを変える必要がある。険しい山道を突き進んでやっと到着する場所が駐車場、さらにそこから下っていかなければ境内に入れないのだからよほど適当な場所がなかったのだなと思わないといけない。

 このお寺の縁起に登場するのは役小角(えんのおづの:奈良時代の呪術者で修験道の開祖)で、小角が石鎚山で修業をしていた時に現れた蔵王権現をシャクナゲの木で彫り、それをお堂に安置したものが始まり。後に行基菩薩も弘法大師も入山し、特に弘法大師はこの地で大日如来を彫ってそれが本尊となる。山号は石鉄山と書いて「いしづちさん」と読む。

 明治時代に廃仏毀釈(仏教を廃絶し出家者だけが受ける恩恵をなくし、神道の習慣をよく似ている仏教のそれから切り離して浄化させる考えや運動、明治元年に法律により施行された)の流れで廃寺となるが、のちに大峰寺という名で復興、廃寺から38年後ようやく横峰寺の寺号が復活する。

 数年かけて方丈を立て直していたがそれもすっかり終了し、現在は大師堂の奥にさらにもう一つお堂を作っている真最中だった。

【札所61番 香園寺】
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 本編では一度昔の姿を見てみたいと書いた香園寺、場所は伊予小松の国道沿いにある。現在は巨大なお堂が立っているが、その入り口に昔の面影があり、入口をぬけると右側にお堂が並んでいた。

 このお寺は聖徳太子が開基したお寺で、のちに行基菩薩や弘法大師も巡錫している。一時期は奈良の高鴨神社の別当寺になっていた時代もあったらしい。まさか聖徳太子も自分が開いたお寺が後の世にこんな巨大なお堂を持つ寺になるとは思わなかったであろう。

 このお寺でのお参りの仕方は日記でも書いたとおりだ。中には最初から中に入って本尊と大師を中で打つという人もいるらしい。もちろんこんなお参りの仕方をするお寺もこの寺だけである。自分の知っている限り靴を脱いでお参りするのはこのお寺のほかに71番弥谷寺の大師堂、1番霊山寺の納経所、今は違うが一時期58番仙遊寺の納経所もそうだった。

【札所62番 宝寿寺】
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 日記でも書いた通りこの寺は荒廃の一途をたどり始めた気がしてならない。場所は伊予小松駅のすぐ隣にある。

 この寺の縁起は聖武天皇の勅令で建立され、金剛宝寺と命名された。後に弘法大師が本尊である十一面観音像を彫り、宝寿寺と改名した。17世紀になり現在地の付近に移されて再興するが、その後大正時代に予讃線工事に伴い現在地へと移転。

 このお寺に関しては日記でも書いた通りあまりいい印象を受けていない。少なくとも事実を知れば知るほど、また個人的にもこの寺を訪れれば訪れるだけ寂しく感じてならない。それはこの寺が霊場会から脱会したから云々ではない。今後の再興を待つよりほかない。

 このお寺には二か所の駐車場があり、無料で利用できる。本尊は弘法大師が彫った十一面観音で、この観音像は光明皇后を模したものと言われている。

【札所63番 吉祥寺】
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 札所62番宝寿寺と同じ国道沿いにある。距離は1.4キロほど。宝寿寺もそうだがこちらのお寺も典型的な町寺だ。前回来た時に民間駐車場に車を止めねばならず、今回は近くにできたショッピングモールに車を止めて歩いて行った。

 この寺は弘法大師が光を放つ檜の木から毘沙門天、吉祥天など3体の像を刻み安置をしたのが始まり。その後戦火に追われて今の場所に移転、再建され現在に至っている。

 ご本尊は毘沙門天、四国88か所中毘沙門天をご本尊に持つ寺はこの寺だけである。境内には日記でも書いた祈願石という甌穴石があり、自分の杖を試すお遍路さんが大勢やって来る。

【札所64番 前神寺】
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 場所は西条市内、国道からちょっと奥まった旧道沿いにある。山門の前に駐車場があり墓地を通り過ぎると境内に入る。

 寺の縁起は横峯寺と同じ役小角が見た蔵王権現に始まる。病気併願を祈った桓武天皇により伽藍が整えられ、金色院前神寺となる。その後も歴代天皇の信仰が厚い寺だった。その頃は横峰寺と同じで石鎚山の神、石鎚権化の別当寺だった。(わかりやすく書けば石鎚山という神を下から眺めるお寺だった。神仏習合が当然の時代、神社、神が寺を持つことも当然でそういう寺のことを別当寺と呼んでいた。前神寺と横峰寺は同じ石鎚山の別当寺だったのだ。(この二つの寺の山号は「石鉄山(いしづちさん)」である。)やがて石鎚山の中腹にも前神寺ができ、現在の前神寺を「里前神寺」、山中の前神寺は「奥前神寺」と呼ばれるようになる。

 明治時代に入ると神仏分離令により里寺も奥寺も廃寺になる。神社部がその後石鎚神社になるが、およそ20年後に復興し現在に至る。こんな風にかつての札所は実は部分的に神社でしたということが明治時代以前にはよくあるケースだったのだ。現在の奥前神寺は前神寺の奥の院となり、ロープウェー石鎚山頂駅の近くにある。

 ここ数年前神寺は墓苑に力を入れているのか、訪れるたびに墓苑が大きくなっていくような印象を受ける。またこのお寺の見どころである御滝行場不動尊がすっかり真っ赤になってしまってなんとも見るに忍びない。

 ご本尊は役小角が彫ったと言われている阿弥陀如来。

 この小松・西条の札所が終わると伊予はほとんど終わったも同然で残すは三島にある三角寺だけとなるが、それはまた次回ということで。

 小松にはまだ旧讃岐街道があり、小松の古い町並みは国道沿いよりは旧道沿いにある。国道は車が通るところ、旧道も車は来るが人や自転車が行き交うのが似合っている。その国道沿いには前回はなかった大きなショッピングモールができていた。僕が最初にここに来た時にはローソンができたばかりの頃で、その時そのローソンも周囲からはやや浮いて見えたものだが、今となってはすっかり馴染んでいる。時の移り変わりとともに古い町並みはだんだんと姿を変えていく。旧街道沿いはそんな場所と比べると時間が止まったかのようにも感じられる■

by fibich | 2015-08-21 22:44 | 旅の話

詩と写真の日記

by 遊羽(なめタン)
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