カテゴリ:旅の話( 225 )

 シルバーウィークを利用して四国へ行ったんだけど、その時の話はまだ書いてない。でもこっちはすぐにかけそうなので書こう。

 先週の日曜日、妻がかねてより念珠が欲しいというので浅草に行ってきた。妻はいつも念珠を手首に付けているのだが特に信心深いというのではなく、単にお守りとして身に付けている。僕も以前は本水晶の念珠を手首に付けていたのだがだんだんとゴム紐が伸びて来てゆるゆるになったので今ではつけていない。思えば先の先の遍路旅で札所40番観自在寺に行ったときに買ったものだ。

 3年前4回目の結願を終えてから巡礼用の数珠を新しくしようと思い札所で探し回っていた。今使っているものはアクリル玉のもので、これはお遍路を始めた時に買ったもの。二回目を始めるときに新たに黒い珠の数珠を買い、それを3回目までは使っていたが、四国だけでなく坂東観音巡礼や秩父観音巡礼の時も使い、坂東札所14番弘明寺の境内で自然にほどけてしまった。以来再び最初に買った数珠を使い続けていた。

 四国も4巡目が終わり、金剛杖と輪袈裟も新しくしたが数珠だけはまだだった。で、今回札所77番門前の巡礼用品店で漸く探し回っていたものを見つけたので買った次第。それは見た目はこれまで使っていた数珠の珠がアクリルではなくて本水晶のものだ。遍路が使う数珠は真言の数珠で、珠数は108あるので本水晶だと値が張るのはわかっていたが今回思い切って買ったのだ。

 これを見ていた妻が黙っているわけがない、自分も念珠を探していたのになかなか見つけられない。四国にいた時もあれこれ探していただろうに見つからなかったのだがこうなったら日本最大級の仏具店の集まる町、浅草へ行こうと言い出したのである。

 さて、前置きは長くなったが今回は思う存分念珠を探してもらい、気に入ったものが手に入ればそれでいいやと思っていたので浅草見物なんてものも端っから考えてもなかった。

 地元の駅から上野東京ラインで上野まで行き、そこから浅草までの通称「浅草通り」は日本屈指の仏壇通りでもあった。とにかく浅草方向に向かった右手には仏壇、仏具店が軒を連ねるちょっと異様な場所である。なぜ右側だけかというと仏具店は直射日光を嫌うのだ。ちょうど神田神保町で古本屋が同じ側にしかないのとまったく同じ理由である。

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◆今回の出発は上野駅
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◆浅草通りに入ったとたんに仏壇通りはスタートする
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◆歴史も半端ない
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◆途中には下谷神社という立派な神社も

 写真に神社が登場したのでこれも書くが、この仏壇通り、仏壇ばかりを扱っているわけではなく、神事に関係するお祭りの道具やお社などを扱った店もある。まさにお祈りする人のための通りだ。

 それにしてもひいき目に見たって不気味な通りである。とにかく仏具店なんてそんなに客がいるわけでもなく、
足を踏み入れるにしてもかなりの勇気が必要だ。仏具店だけに扱っている数珠もいろんな種類があるのだが、さすがに仏壇通りともなるとどこかの有名なお寺の門前で売られているような数珠とは違って本職が使うようなものがたくさんある。もちろん冷やかしなんてまったくシャレになっていない。そしてそんな雰囲気の店が軒を連ねているのだ。おおお立派な仏壇いくらくらいするんだろうと覗いてみると平気で100万円以上もするようなものが置かれているのだからお店に入るだけでも神経を使う、実に疲れる通りだ。ここにはぶらりと見物して楽しむなんて洒落っ気は一切ない。

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◆仏壇通りは上野から稲荷町、最終的には田原町まで続く
◆稲荷町駅付近には反対側にも店があった

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◆浅草通りから合羽橋商店街が始まる

 しばらく歩くと合羽橋商店街の南端に出てくる。ここから北方面に伸びる合羽橋商店街もまた専門店が軒を連ねるのだがこちらは観光客もよくやってくるし楽しそうだ。一方まだまだ続く仏壇通りはなんとも異様な雰囲気が続き、観光とはまったくもって縁遠い風景が続く。

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◆合羽橋入口の近くには東本願寺もある

 さて、この仏壇通りでいくつもの仏具店に入っては念珠を探したが、たいていのお店の人は冷やかしとはわかっていながらも(こちらはそんなつもりではないが)しっかりとお話を聞いてくれて懇切丁寧に説明もしてくれる。数珠の種類についてもあるものはある、ないものはなくてすみませんでしたといった姿勢で接客をするのだが、そんな中で〇善堂という店で妻が念珠を探していると店員にいうと…

「そんなものはブレスレットでしょう、うちでは扱ってません。ここよりも浅草の仲見世ででも探せばいいんですよ。」

 といった感じの客を客とも思わない無礼な応対をする店もあった。ちょっと耳を疑ったが確かにそう言った。少なくとも妻が探していたのは念珠であり、ブレスレット感覚で身に付けているとはいえ妻は真剣に念珠を探していたのだ。だからおそらくブレスレットなど買い与えても満足はしなかっただろう。あまりにも無礼すぎるよね三〇堂さんさ。心のない店員にちょっと不快な思いをさせられた。

 仏壇通りの田原町駅近くにあるお店で妻がネットでも見たという滝田商店という店に入り、そこでようやく理想の念珠が見つかったらしくて念珠を手にすることができた。店員さんも親切だったしiPadを使っていろいろと検索もしてくれた。ついでだったのでゴム紐が伸びきった僕の念珠も修理に出した。

 こうして我々の目的は無事に終了した。この後は浅草まで歩いたが面白いことにこの仏壇通り、田原町から先は仏壇屋がプツリと途絶える。そんなわけで仏壇通りは実際には浅草あ通りの上野から田原町までの間のことを指すのだろう。

 田原町から先も浅草まで歩くと雷門のすぐ手前あたりに北海道のアンテナショップがあったのでそこでソフトクリームを食べコアップガラナを飲んで休憩。雷門をくぐり外国人でごった返すイモ洗い仲見世を通って浅草寺にお参りをした。しかしつくづく寺好きだなと思われちゃってもしょうがないかな。

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◆外国人の憧れの地、浅草雷門
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◆ご存じ浅草寺、坂東三十三観音巡礼の札所13番


 お参りの後は伝法院通りを歩き、この通りにあるブラシの専門店、かねやでわんこ用のブラシを買い求めた。我が家のわんこのグルーミングはこの店のペット用ブラシを使っている。
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◆伝法院通り、ここは芸人の衣装屋も多い

 この後は本当に浅草見物、気の向くままにブラブラ歩き回り写真を撮って回ってはいつしか日も暮れていくことさえ忘れていた。

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◆どことなく懐かしい気持ちになる花やしき
 
 六区の近くには飲み屋が並んでいて機から美流渡何を食べても美味しそうで何よりも楽しそうだったのだが、僕はお酒が飲めないからこういったお店の楽しみとは皆目無縁であり、それが残念でならない。

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 夕飯は老舗の天婦羅や、大黒屋で天丼を食べた。すっかり暗くなってから浅草駅前にある仏具店に寄ってお線香も買って帰った。この店は四国や西国、秩父、坂東といった巡礼の用品もちゃんと備えている。

 全く非日常的な仏壇通りをフラフラ歩き回り、浅草見物をぶらぶらしてお土産には人形焼ではなくお線香を買って帰るのもなんとも我が家らしいなと思った。最初は地下鉄に乗って上野まで行こうと思っていたのだがせっかく来たのだからもう一度夜の浅草通りを上野まで歩いて帰ることにした■

 この夏の伊予一国打ち遍路旅で打った札所紹介も今回が最終回。今回は伊予三島にある札所65番三角寺と今回は打たなかった札所40番観自在寺の紹介です。札所64番前神寺を出ると次の三角寺までは距離があり、たいていは松山自動車道に入って川之江三島ICで降りる。ここで降りると三角寺へ向かう道に入りやすいので便利。バイク遍路時代は川之江を拠点の一つとしていて、市街から離れた山中にある切山という集落にある四阿で野宿をしたこともあった。高い場所にあって涼しかったことを今でも覚えている。

【札所65番 三角寺】
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 場所は伊予東部、伊予三島(現在は四国中央市)にある。麓の三島から延々と山道を登った先にある山寺で、駐車場からは石段をさらに上ってやって境内に入るが、境内は至って町寺のようなたたずまい。山門に鐘があり手水場は境内の奥のほうにある。順番を守るとしたら行ったり来たりとあわただしくなることは必至。

 寺の縁起は行基菩薩が開山したという言い伝え。弘法大師が後にこの寺で三角形の護摩壇を築いて三週間の護摩行を行ったことから三角寺と名前が付き、境内には三角形の池がある。往時は栄えて大きな寺だったが度重なる戦火により消失し、19世紀になって復興した。

 本尊は十一面観世音菩薩、これは弘法大師が据え置いたもので、それ以前は弥勒如来だったという。現在でも大師堂に大師像とともに安置され、2014年に初めて御開帳されたという。

 本編でも書いたがここの石段は段が高くて苦労する。膝が痛くなるのは必至だ。見上げると鐘がついた山門が待ち構えている。また最近は納経所でもお金を両替してくれる札所がちらりほらりと増えつつあるが、この三角寺はだいぶ以前からそのサービスを行っていた。

 駐車場は石段下で有料。常に監視しているおじさんがいるので駐車料金を誤魔化すことはできないがここに車を止めておけばまず車上狙いの心配はない。

【札所40番 観自在寺】
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 場所は愛媛県愛南町(旧御荘町)。高知県宿毛市からだいたい20キロほどの距離。札所1番霊山寺から最も離れていて裏関所としても知られている。距離的にはこの寺が、順番は久万高原にある札所44番がそれぞれ巡礼の折り返し点と考えられている。

 この寺は弘法大師が開基した寺で、平城天皇の勅願により弘法大師が一本の木から本尊の薬師如来像、脇侍の阿弥陀如来像と十一面観音像を彫ったという言い伝えがある。何度か失火で堂を失っているが、最後の火災は1959年でその時には本堂を失っている。

 駐車場は山門前に広く取ってあるが御荘の町から入ってくる道が狭いため観光バスは通れない(と思うがもしかしたら通れるのかも)

 ここのお寺の納経所には大塚さんという非常に面倒見の良い方がいらして、何度も巡っている人には顔なじみでもある。最後にお詣りをした時には大先達の錦札をお接待として頂いた。間違いなく我が家の家宝である。以前この大塚さんと食事を共にしたことがあったのだが、四国巡礼がブームになり団体様も来るのはいいことだが、本来の目的を忘れてスタンプラリーみたいな感覚で巡礼している人が多すぎる、せめて本堂だけでもちゃんとお参りしてほしいというようなことを仰っていた。というのもこのお寺の納経所は本堂の中にあり、結構多くの人が中に入ってきていきなり御朱印をもらいに来るのだという。

 確かに僕が巡礼を始めた時からそういった人は多かったと思うし、それは今でも同じことだと思う。この他にも団体様のマナーの低下、数年前から問題になっているお札泥棒(先達の金札、銀札や錦札を納経箱から盗んでいく輩がいる。)など、いろんな問題が四国88か所にはある。四国におけるお遍路は仏に近い存在で、自分たちの代わりに修業をしてくださると尊敬される存在であった、そのためにお接待という習慣もできたとも言われているが、お接待を受けるべきお遍路がお堂で他人のお札を盗むなんて嘆かわしい限りだ。

 この話を始めると止まらなくなるのでここでやめにはするが、自分だけでもしっかりとした心構えでこれからも巡礼を続けたいと思う。そうでないと大塚さんをはじめとした方々やこれまでにお接待をしてくださった方々にも顔向けができない。

 これでこの夏の遍路日記は(もうネタもないし)終了となります。こんな堅苦しくてつまらない日記を読んで四国八十八ヵ所に関心をもってくれるような人はいないとは思うけど、同じようにわんこ連れでお遍路しようという人にとって多少は参考になることを祈ります■

 この夏の伊予一国打ち遍路旅で打った札所。今回は小松・西条の札所を紹介します。小松は今治から南に20キロほど離れた町。今でこそ西条市の一部になっているが平成大合併の前は小松町という町だった。地元の小松高校が去年の夏の甲子園の愛媛代表で出場もしている。

【札所60番 横峯寺】
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 ここからは小松の札所が始まる。と言ってもその最初はこんな山の中と言いたくなるような札所の60番横峰寺。今から30年ほど前は車遍路も麓に車を置いて歩かねばならないお遍路ころがしが残っていた。今でもここに到達するにはそれ相当の苦労は覚悟のうえである。というのも位置から言えば石鎚山の中腹だ。ルートは車やバイクの場合、西条の近くから石鎚登山道に入り、途中から平沢林道へルートを変える必要がある。険しい山道を突き進んでやっと到着する場所が駐車場、さらにそこから下っていかなければ境内に入れないのだからよほど適当な場所がなかったのだなと思わないといけない。

 このお寺の縁起に登場するのは役小角(えんのおづの:奈良時代の呪術者で修験道の開祖)で、小角が石鎚山で修業をしていた時に現れた蔵王権現をシャクナゲの木で彫り、それをお堂に安置したものが始まり。後に行基菩薩も弘法大師も入山し、特に弘法大師はこの地で大日如来を彫ってそれが本尊となる。山号は石鉄山と書いて「いしづちさん」と読む。

 明治時代に廃仏毀釈(仏教を廃絶し出家者だけが受ける恩恵をなくし、神道の習慣をよく似ている仏教のそれから切り離して浄化させる考えや運動、明治元年に法律により施行された)の流れで廃寺となるが、のちに大峰寺という名で復興、廃寺から38年後ようやく横峰寺の寺号が復活する。

 数年かけて方丈を立て直していたがそれもすっかり終了し、現在は大師堂の奥にさらにもう一つお堂を作っている真最中だった。

【札所61番 香園寺】
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 本編では一度昔の姿を見てみたいと書いた香園寺、場所は伊予小松の国道沿いにある。現在は巨大なお堂が立っているが、その入り口に昔の面影があり、入口をぬけると右側にお堂が並んでいた。

 このお寺は聖徳太子が開基したお寺で、のちに行基菩薩や弘法大師も巡錫している。一時期は奈良の高鴨神社の別当寺になっていた時代もあったらしい。まさか聖徳太子も自分が開いたお寺が後の世にこんな巨大なお堂を持つ寺になるとは思わなかったであろう。

 このお寺でのお参りの仕方は日記でも書いたとおりだ。中には最初から中に入って本尊と大師を中で打つという人もいるらしい。もちろんこんなお参りの仕方をするお寺もこの寺だけである。自分の知っている限り靴を脱いでお参りするのはこのお寺のほかに71番弥谷寺の大師堂、1番霊山寺の納経所、今は違うが一時期58番仙遊寺の納経所もそうだった。

【札所62番 宝寿寺】
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 日記でも書いた通りこの寺は荒廃の一途をたどり始めた気がしてならない。場所は伊予小松駅のすぐ隣にある。

 この寺の縁起は聖武天皇の勅令で建立され、金剛宝寺と命名された。後に弘法大師が本尊である十一面観音像を彫り、宝寿寺と改名した。17世紀になり現在地の付近に移されて再興するが、その後大正時代に予讃線工事に伴い現在地へと移転。

 このお寺に関しては日記でも書いた通りあまりいい印象を受けていない。少なくとも事実を知れば知るほど、また個人的にもこの寺を訪れれば訪れるだけ寂しく感じてならない。それはこの寺が霊場会から脱会したから云々ではない。今後の再興を待つよりほかない。

 このお寺には二か所の駐車場があり、無料で利用できる。本尊は弘法大師が彫った十一面観音で、この観音像は光明皇后を模したものと言われている。

【札所63番 吉祥寺】
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 札所62番宝寿寺と同じ国道沿いにある。距離は1.4キロほど。宝寿寺もそうだがこちらのお寺も典型的な町寺だ。前回来た時に民間駐車場に車を止めねばならず、今回は近くにできたショッピングモールに車を止めて歩いて行った。

 この寺は弘法大師が光を放つ檜の木から毘沙門天、吉祥天など3体の像を刻み安置をしたのが始まり。その後戦火に追われて今の場所に移転、再建され現在に至っている。

 ご本尊は毘沙門天、四国88か所中毘沙門天をご本尊に持つ寺はこの寺だけである。境内には日記でも書いた祈願石という甌穴石があり、自分の杖を試すお遍路さんが大勢やって来る。

【札所64番 前神寺】
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 場所は西条市内、国道からちょっと奥まった旧道沿いにある。山門の前に駐車場があり墓地を通り過ぎると境内に入る。

 寺の縁起は横峯寺と同じ役小角が見た蔵王権現に始まる。病気併願を祈った桓武天皇により伽藍が整えられ、金色院前神寺となる。その後も歴代天皇の信仰が厚い寺だった。その頃は横峰寺と同じで石鎚山の神、石鎚権化の別当寺だった。(わかりやすく書けば石鎚山という神を下から眺めるお寺だった。神仏習合が当然の時代、神社、神が寺を持つことも当然でそういう寺のことを別当寺と呼んでいた。前神寺と横峰寺は同じ石鎚山の別当寺だったのだ。(この二つの寺の山号は「石鉄山(いしづちさん)」である。)やがて石鎚山の中腹にも前神寺ができ、現在の前神寺を「里前神寺」、山中の前神寺は「奥前神寺」と呼ばれるようになる。

 明治時代に入ると神仏分離令により里寺も奥寺も廃寺になる。神社部がその後石鎚神社になるが、およそ20年後に復興し現在に至る。こんな風にかつての札所は実は部分的に神社でしたということが明治時代以前にはよくあるケースだったのだ。現在の奥前神寺は前神寺の奥の院となり、ロープウェー石鎚山頂駅の近くにある。

 ここ数年前神寺は墓苑に力を入れているのか、訪れるたびに墓苑が大きくなっていくような印象を受ける。またこのお寺の見どころである御滝行場不動尊がすっかり真っ赤になってしまってなんとも見るに忍びない。

 ご本尊は役小角が彫ったと言われている阿弥陀如来。

 この小松・西条の札所が終わると伊予はほとんど終わったも同然で残すは三島にある三角寺だけとなるが、それはまた次回ということで。

 小松にはまだ旧讃岐街道があり、小松の古い町並みは国道沿いよりは旧道沿いにある。国道は車が通るところ、旧道も車は来るが人や自転車が行き交うのが似合っている。その国道沿いには前回はなかった大きなショッピングモールができていた。僕が最初にここに来た時にはローソンができたばかりの頃で、その時そのローソンも周囲からはやや浮いて見えたものだが、今となってはすっかり馴染んでいる。時の移り変わりとともに古い町並みはだんだんと姿を変えていく。旧街道沿いはそんな場所と比べると時間が止まったかのようにも感じられる■

 この夏の伊予一国打ち遍路日記、今回打った札所の今日は今治の札所の紹介を各寺の手水場の写真とともに紹介します。 内容はちょっとお堅くて止まらないという方は写真だけでもお楽しみください。

【札所54番 延命寺】
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 場所は今治市の南部。国道196号線から県道38号線に分かれた先にある。山門前の駐車場には大型バスも止められるスペースがあり、駐車場にトイレもある。

 このお寺は特徴のある寺で、山門を通ると真正面に本堂がある。本堂までの左側には方丈があり、納経所とお土産屋がある。右側には手水場。本堂前の階段を上がり詰めると大師堂がある。現在本堂は改修工事中で本尊の不動明王はお土産屋のある方丈に移されている。なので今回は本堂は全く見られなかったし、お土産屋での買い物やそば茶のお接待も受けられなかった。

 このお寺は聖武天皇の勅令で行基菩薩が不動明王を彫り堂宇を建立して開基された。後に弘法大師が嵯峨天皇の命を受けて再興させ、圓明寺という寺号を受けた。(その頃の53番札所圓明寺は「圓明密寺」という名前だった。)53番札所が圓明寺と寺号を変えると紛らわしくなり、明治時代に俗称である延命寺をそのまま寺号とした。

 本尊は行基菩薩が彫った不動明王。駐車場は有料で100円を納経所に納める。昼間のうちは影がなく、夏場はトイレ向かいの木の下に2台ほど日影がある。境内にあるお土産屋はそう勝手に呼んでいるだけで納経所がお札やお守りを売っているその規模がやや大きくなったものだと考えられる。ここで般若心経の手ぬぐいを買ったこともある。

【札所55番 南光坊】
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 今治駅から近く、市街のど真ん中にある。広い境内は車でも乗り入れることができ、木が少ないので夏場は逃げ場もない。「坊」という名前やほかの寺では見られないご本尊の名前など、どことなくこのお寺は他とは違っている印象を受ける。

 この寺は元はというと大三島にある大山祇神社(おおやまづきじんじゃ)の別当寺として建立された寺の一つである。後に今の場所へと遷移された八坊の一つ、南光坊を弘法大師が霊場の札所として定める。その後戦火で八坊はすべて消失するも、南光坊だけは再興された。

 明治時代に入り神仏分離されると大山祇神社の本殿にあった本地仏である大通智勝(だいつうちしょう)如来が南光坊へと遷座され、南光坊の本尊となる。そんな理由があってもともとは八百万の神々の一部が如来であるという本地垂迹(ほんちすいじゃく・日本の神々ももとは仏教の如来や菩薩がルーツであるという思想)に基づきここの本尊は大通智勝如来という名前になっている。

 ところが太平洋戦争の際の今治空襲で金毘羅堂と大師堂以外は悉く消失してしまい、戦後徐々に復興していった。本堂は1981年に、薬師堂は1991年に、1998には山門が、そして2010年に大師堂が改修されている…ってことは古い大師堂も見ているということになるのかな。

 このお寺の納経所には田中さんというちょっとした有名人がいらして、自分の押した御朱印を見て以前にもお参りに来たお遍路さんを思い出す人がいる。時間があると色紙を書いてくれたりとなかなか思い出に残る応対をしてくださる。我が家のわんこのことも覚えていてくださっていた。ちなみに僕の納経張の南光坊の御朱印はひとつ上下逆に押されているものがあり、これはとても珍しいと田中さんは仰っていた。

【札所56番 泰山寺】
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 場所は今治の町からちょっと外れてだいぶ落ち着いた雰囲気のある場所。この地を訪れた弘法大師が村人に治水工事を行わせ、土砂加持の法要を行っていた時に延命地蔵菩薩が現れたことから弘法大師自らが地蔵菩薩像を彫り堂宇を建てて本尊を祀ったのがこのお寺の始まりと言われている。

 そんなわけでこのお寺はご本尊が地蔵菩薩、ほかの札所と違って弘法大師自らが開基した寺でもある。

 近くの道沿いに大きな駐車場があるが有料。他に車を止める場所もないのでたいていの人はこの駐車場を利用する。他に取り分けて特徴があるお寺でもなく、個人的にも打ち始めや打ち止めになったこともないが、今回の旅では境内でクレジットカードを落とし、それがちゃんと出てきたこともあって忘れられない場所ではある。

【札所57番 栄福寺】
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 場所は今治の中心からは南に少し離れたところ。最後の最後に長い坂をのぼるので印象深い。またこの辺りには車を止めるところもなくかつては近くの道路に観光バスがたくさん止まっていたものだがこのお寺にも大きな駐車場がいつの間にかできていた。

 このお寺は海難防止のために嵯峨天皇が弘法大師に命じて開基した寺だ。その後にさらに高い場所に石清水八幡宮が創建される。明治時代に神仏分離令が下ると八幡宮からは分離され、今の地に移されたという。

 僕がバイク遍路をしていた時はまだこのお寺に直に乗り付けても何のお咎めもなかった時代だった。鐘をついて納経所の前を通り本堂まで続く階段を見ると何とも言えずホッとしたもので、さらに大師堂も打ち終えて石段の上から納経所を眺めてもやっぱりホッとしたものだ。雰囲気は町寺だがどことなくここまで来たと言う気分になる。

 本尊は阿弥陀如来。今回はこの寺で打ち止め、この寺での打ち止めは2回目だった。

【札所58番 仙遊寺】
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 雰囲気は57番の栄福寺となんとなく似てなくもないのだが、こちらは本当に高いところにある山寺だ。麓にある仙遊寺入口から延々と山道を登って行く印象がある。山門もそんな山道の途中にある。最後はお寺まで道路をつないだ様で道路管理費が駐車場料金に上乗せされ、ほかのお寺よりも駐車料金は高めに感じる。

 天智天皇が伊予太守に命じて堂宇が建立されたという言い伝えがある。寺号はこのお寺の伽藍を長年整備していた仙人がある日突然遊びに出たっきり帰ってこなかったからという話だが本当かどうかはわからない。その伽藍を復興したのが弘法大師で、大師が逗留中に井戸を掘ったと言われている。その後廃れてしまったが明治時代になって復興を遂げている。現在では宿坊(温泉付き)もあり毎年夏には4万6千日を前に盛り上がりを見せる。
 ご本尊は千手観音。この千手観音も空から現れた龍女が一刀三礼で彫ったものだという言い伝えがある。

【札所59番 伊予国分寺】
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 ここでようやく国分寺の登場である。その国の打ち始めから国分寺が登場するのはどこの国も(土佐を除いて)遅いものだが、伊予は20番目にしてようやく真打登場という感じだ。(ちなみに阿波と讃岐は15番目、土佐はもとから札所が少ないので6番目)。お遍路も何度目かになると国分寺の存在について改めて考えてしまうものである。54番から始まる今治の札所はここで終わり。

 このお寺の縁起はそんなわけで聖武天皇が発した国分寺建立の詔によって建立された諸国国分寺の一つ。この寺はそんな国分寺の中でも行基菩薩が勅命を受けて開基した。後に弘法大師が長期にわたり逗留して五大明王像を立てている。
 
 その後は戦火に焼けよその国分寺と同じ運命を辿る中、伊予の信仰の中心地として何とか荒れ果ててしまわずに済んだ、そんな記録を残した古文書が焼けずに残っていた。

 このお寺も典型的な町寺、しかも木が少ないために夏場は逃げ場所に困ってしまう。今回手水場が変わっていてびっくりしたが完成は2014年。ボタンを押すと水が出て、真ん中に薬師の壺がある。

 ご本尊は薬師如来(厳密には薬師瑠璃光如来)。駐車場が以前はちょっと遠いと不評だったが今は階段下に大きな駐車場ができている。来る度にちょっとずつ姿を変えている。

 この国分寺を打ち終えると今治を離れて小松の札所へとまた移動をする。バイク時代は今治から小松までの移動もちょっと時間がかかったが、今では有料道路が開通して小松までの時間はぐんと短くなっただろう。次回は小松・西条の五ヶ寺を紹介します■

 遍路日記雑記、伊予札所紹介の二回目は松山市内の札所についてです。こんな話はトリビアでしかありませんが四国の県庁所在地の中で札所が最も多いのが松山市(8ヶ寺)なのである。そんなわけで今回は一挙に8ヶ寺を紹介しましょう。ちなみに他の県庁所在地はどうかというと他はすべて5ヶ寺である。子規や漱石も遍路を詠んだ俳句があるくらいで、松山は四国88か所とも縁が深い。それでは各寺院の涼し気な手水場写真と一緒に札所の紹介を始めましょう。

【札所46番 浄瑠璃寺】
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 場所は松山市南部。三坂峠を越えて松山市内に入ったところにある。境内は鬱蒼と木々が茂り日影が多い。入口の石段を上がり真正面に本堂、その左側に大師堂がある。まだ大師堂の左わきには蓮池もある。入口の石段には正岡子規の句碑も残されていてここはもう松山なんだなと実感する。中に入ると木陰が多く、右手に鐘楼、左側には納経所、その先納経の奥には仏足石、右側には樹齢千年を超え市の天然記念物にもなっている伊吹の巨大な木がある。その奥に本堂、本堂に左側に大師堂があり、大師堂の奥には蓮池もある。


 開基は行基菩薩、本尊は薬師如来で薬師如来がおられる瑠璃光浄土から名前が取られたとも言われている。(ちなみに山号である医王山というのはだいたい薬師如来が本尊の寺だ)。またこのお寺の近辺は遍路の元祖でもある衛門三郎の生地でもある。衛門三郎の話は本編で書いたのでこちらでは省略。

 このお寺は岩屋の登りや御坂峠越えで心身ともに疲弊したところを癒してくれる。そんな存在でもある。この寺と次の札所47番八坂寺はどちらもそんな感じだ。またこのお寺から数えて札所53番圓明寺までは松山八ヶ寺と呼ばれていることからこのお寺は松山市内の入口のような存在でもある。

 入口向かいに遍路宿として有名な長珍屋(ちょうちんや)もあるが、オフシーズンの時には営業しているのかどうかは謎。この長珍屋は昔本当に提灯を作っていたらしい。

【札所47番 八坂寺】
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 46番浄瑠璃寺からはさほど離れていない松山市南部に位置する。坂道沿いに寺があり、正門の位置が坂の下、本堂や大師堂の位置が坂の上にある。文武天皇の勅令で8世紀頃開基した古い寺で11世紀頃は修験道の道場となり10以上のお堂を持ち僧兵を擁した大きな寺だったらしいが、度重なる兵火による消失と復興を繰り返し現在に至る。

  浄瑠璃寺の時にも書いたがこの地方は衛門三郎の出身地ということもあり、何かと衛門三郎にまつわる言い伝えも残っているし、この寺の近くには「衛門三郎の里」という施設もある。

だいたいこのお寺は昼のうちに久万高原の札所を打ち、できるだけ松山市の中心に近い札所まで打ち急ぐ途中にあるが、このお寺で打ち止めになったことも2度ほどある。本尊は阿弥陀如来。

【札所48番 西林寺】
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 開山は行基菩薩。のちに弘法大師がこの地を訪れた時に旱魃で苦しむ人々を救うために錫杖で地面を突いて水を出したといういわれのある杖の渕がすぐ近くにある。杖の淵の水は日本名水100選にも選ばれている。

 聖武天皇の勅令で建立され、のちに弘法大師が錫杖で水を出した杖の渕が奥の院になっている。17世紀に大火で消失したが、18~19世紀にかけて徐々に再建され現在に至っている。

杖の渕の名水が寺のすぐ脇にも流れているし、手水場の水もそうである。印象としては特徴のない典型的な町寺という感じがするが、このお寺はこれまでに2度打ち始めの寺になっているので早朝のすがすがしい印象がほかの寺よりも色濃い。その一方で団体様に襲われたり、納経所の人が呼んでも全然出てこなかったりといろんな思い出が残っている。

 本尊は十一面観世音菩薩。駐車場は道路沿い、納経所の近くにバスでも止められる大きな駐車場がある。

【札所49番 浄土寺】
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 西林寺からさらに松山市街に向けて進み、鷹ノ子駅の横にある踏切を越えて左折したすぐ先にある。ここまで来るとだいぶ町中に入ってきた感じもする。

 この寺は孝謙天皇の勅令で恵明上人が開基し、行基菩薩が刻んだ釈迦如来像を本尊として開山した。空也上人ゆかりの地で、木造空也上人像は国の重要文化財。他にも空也を詠んだ正岡子規の句碑もあるらしいのだが、実はあまりそのことを知らずにまだ見たことがない。

 ごくごく普通の町寺だが本堂も大師堂もなかなか古くて味のあるお寺でもある。松山も近くだいたいは夕方やってくるのでここで宿を探したり、雨が降った時に雨宿りをしたりと思い出もある。山門すぐ前に駐車場があるあたりがどことなく40番の観自在寺にも似ているというのは本編でも書いた。

 本尊は釈迦如来。

【札所50番 繁多寺】
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繁多寺といえば水曜どうでしょうのファンタジーを思い出すのだが、知らない人の方がきっと多いはずだ。山門の前に駐車場があり、そこからまっすぐ本堂に続いている。その間に手水場と鐘楼がある。

このお寺は地元では「畑寺」と呼ばれ、畑寺という地名にもなっている。孝謙天皇の勅令で行基菩薩が本尊の薬師如来を彫り光明寺と称したが後に弘法大師によって寺号を繁多寺とされ、その後衰退と繁栄の歴史を経て現在に至る。源氏や一遍上人とのゆかりもあり、かつては大きな寺であったらしい。

現在では住宅地の真ん中の溜池横にある静かなお寺である。このお寺を打ち終えるといよいよ次は松山のお大師、札所51番石手寺だ。個人的にはここで打ち止めになったこともある。

本尊は薬師如来。

【札所51番 石手寺】
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 弘法によって弔われた衛門三郎の生まれ変わりが石を握っていたことから改名されたお寺。現在は松山のお大師として市民に親しまれている道後温泉からも程近いお寺だ。門前の仲見世にある焼餅は名物。また山門は国宝。

 四国札所の中でもひときわ大きなお寺の一つではあるのだが、このお寺はちょっと物申したがり屋なのか、戦争法案に反対だの(そりゃ国民の過半数は反対しているのだろうが)なんだのと境内にあれこれ書いてあってそれがあまり見た目にいいものではなく、むしろ諄いと書いてしまったほうがいいくらいに目障りだった。ある意味これに似ているのがスピーカーで四六時中御詠歌や寺の縁起を流し続ける8番や81番だろう。

 仲見世の楽しげな雰囲気、焼餅の茶屋などとこのお寺にはいろんな楽しみがあるのだが、中に入るとちょっと興ざめしてしまうのが残念。あれさえなければ納経所のある方丈もとても味があるし、三重塔も重厚感に満ちていて来てよかったと思えるお寺なのに残念だな。

 ご本尊は薬師如来。大師堂には夏目漱石や正岡子規が残した落書きがあるらしい。駐車場は道路沿いの少し離れた所、郵便局の隣にある。

【札所52番 太山寺】
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 車で山門の脇を通過してどんどん進んだ先に納経所が、さらに急坂を登った道の終点に手水場があり、そこから急な石段を登ってようやく本堂の前に到着する。門から入り正面には本堂、左手には大師堂があり、敷地の中心には摩尼という手車がある。これを手で回すと読経をしたことになるらしい。しかし門から先の境内には逃げ場がほとんどなく夏場は要注意。

 この寺の本堂は寺を開基した真野長者が大阪へ商用に出た際に海難に遭いなんとか一命をとりとめたとき、命を救ってくださった観音様の報恩のしるしにと建てたもので。その資材を運び入れて一晩で建てたという言い伝えがある。

 現在の本堂はそれから3代目のもの。これは国宝である。ちなみに愛媛県の国宝はこの寺と51番石手寺の仁王門の二つだけ。ご本尊は十一面観世音菩薩。山門から数えて3つ駐車場があるが、一番本堂に近い駐車場まで行ってお参りするのが一番良い。

【札所53番 圓明寺】
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 松山市のはずれ、北条のほぼ手前にある。境内は狭くて典型的な町寺。このお寺はかつて隠れキリシタンが十字架を模した灯篭を大師堂の裏にこっそりと安置していたキリシタン菩薩の寺でもある。キリシタン菩薩、マリア観音などという名前は時折聞くがいずれもかつてキリスト教禁止令の下キリシタンが弾圧を受けていた時代の名残。

 またこの寺には四国88か所の中で最も古い銅板納め札が発見されたお寺でもある。発見者はアメリカ人。寺の縁起によれば聖武天皇の勅令で行基菩薩が開山をした。弘法大師により札所になるがその後失火で衰退、17世紀に現在の場所へ移転され京都の仁和寺の末寺として再興された。

 入口から道路を挟んで向かい側に駐車場があるのだが、駐車場も含めて昼間は逃げる場所もない。夏場はかなり暑いお参りになるのは必至。門前の道路は一方通行でこの道を行くと北条方面へ出られる。

 本尊は阿弥陀如来だが、十一面観世音菩薩を祀る観音堂もある。

 札所53番を打ち終えると今治市内へと移動をします。次回は今治市内の札所を紹介しましょう■

 秘境駅小和田から車を置いてある三河川合駅まで戻ってくると土砂降りだった。時間は2時半過ぎだったと思う。当初この後は浜松まで戻って年に一度は行っているラリーズカンパニーにでも行こうかと思っていたのだが、お腹も空いたし何よりせっかくの小和田駅で食べたコンビニ弁当があまりにも不味かったので何か美味しいものでも食べたかった。頭の中で即座に図式が…

今いる場所(飯田線沿線)+美味しいもの=飯田
飯田=伊那地方=お蕎麦や馬刺し

 ということで無茶もあると思うのだがまだ全然開通していない三遠南信道終点の飯田にまで行ってみようと思い立つ。三河川合駅からだとすぐ近くにある国道151号線を北上すればいいのだ。これは簡単で楽ちん。予定のお店を検索…と思ったのががこの駅は携帯の電波が3Gも入らないので一先ず出発してからと言うことで出発。

 ところが楽勝と思っていた飯田までの道のりは想像以上に遠かった。それは最初に見かけた案内標識で飯田は100㎞以上も先だと知った。知ったときにはもう遅い。とにかく飯田に向けて走るしかなかった。

 途中にあるコンビニで休憩しながら飯田でのお店を探し、目星をつけた場所をカーナビの目的地として再び国道151号を北上。道を間違えなかったらずっとこの国道を進むが、何かの拍子に道を外れて間違って別の国道に入り込んだらこの一帯は悉く道が途中で終わるか険しい林道に迷い込むらしいのでその当たりにも気をつけて運転をした。特に一番違いの国道152号線は悪名高き青崩峠や地蔵峠などトンネルが掘れない場所へと連れて行ってくれるからだ。今日はそんな場所には用事はない。

 国道はだんだんと山に入り、途中からいきなり狭くなってしまう。ちょうど愛知県と長野県の県境の当たり。そしてその先の長野側には道の駅があった。

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◆道の駅 信州新野千石平 

 道の駅はだいたい地産品が数多く売られているが、ここの道の駅ではイナゴ佃煮(しかも大量)や蜂の子などいわゆる「伊那の悪食」も売られていた。これを見てああ伊那に来たんだなとつくづく感じるものだった。

 長野県の南部は伊那地方と呼ばれているが、実はこのあたりに来るのはざっと30年くらいぶりの事であった。一度だけ岡谷から飯田線に乗り、途中の飯田で一泊してさらに飯田線を南下して豊橋まで行ったことがある。当時は電車も戦前に作られたようなオンボロの電車ばかりで電車の墓場なんだなと思ったものだ。首都圏に住んでいると伊那って場所は他の場所よりも数段行きづらいものだなと思う。

 で、伊那というと思い出すのがざざ虫やイナゴ、腐敗直前の馬刺しなどといういわゆる悪食。これはかつて閉ざされた地で冬場の蛋白源が確保できず、夏の間から準備したもので冬を越さなければならなかった当時の習慣が今も食文化として残っている。「悪食」なんて書くと悪そうなイメージが先行するが、要するにちょっと手をつけるに戸惑いそうなこの地方の食品のことでしかない。(しかもわりと美味が多いらしい)

 もう一つは「おじろく」という風習を思い出すのだが、こちらはここで書く必要もないし、書けば必ずやこの地方のイメージダウンにつながるので控えておく。(自分は民俗学が好きなのでこういう話はとても興味があるのだが)

 この道の駅の先もまた険しい道が続くのだがこれも伊那だからなのかなと思いながら運転を続ける。夕方くらいになってようやく中央アルプスが見え始め、飯田も近いことがわかった。

 ここまでして飯田まで来て食べたかったのはやっぱりお蕎麦だ、そしてもしもメニューにあるのだったら馬刺しも食べたかった。そして目星をつけた店が飯田市内、鼎(かなえ)駅の近くにある「三河家」というお店である。

 
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◆飯田の「三河家」 ここに来るために飯田まで来たと店の小父さんに言うと高笑いしていた

 この三河家という店、食べログでは何を食べてもおいしいと非常に主観的なコメントしかなく、何食べたらいいんだろうとさんざん迷った末、僕はとろろそば、ママは五平餅定食(そばと茄子おひたし付き)、それと煮カツも頼む。この日は小和田駅にいたとき以外はほとんど気温も25度以下で涼しく、飯田に至っては冷え冷えとしていた。お蕎麦も熱盛りで食べたいところだがやっぱりざるで食べた方がおいしいだろうと思い煮カツも付け足した。

 
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◆飯田「三河家」の内部、いかにも食堂という雰囲気が懐かしい。

 やがてお蕎麦がやって来たのだが本当においしかった。ママが頼んだ五平餅も手作りで特にゴマ味噌が香ばしく、茄子のおひたしも美味しかった。煮カツも美味しいしまさに何を食べても美味しかった。さらにお店の方々がとてもフレンドリーで食事の後もしばらく話し込んでしまうくらい。「今日これから飯田で花火があるんだよ。」とか「飯田に来るんだったら春、桜がきれいなときに来なきゃダメだよ。」などといろんなお話ができた。いい思い出ができたのと同時にまた「会いたくなる人」との出会いがあったなと思った。ただ秘境駅に行って不思議な時間を過ごすだけでも十分だったのだが、こうしてなんとも人情味のあるお店で美味しいものを食べられたことも嬉しく思った。このために100㎞以上の道のりを走って飯田までやって来て良かったなと思った。

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◆また来ますよ

 三河家のおじさんが「帰るときはそこの道をとにかくまっすぐ行けば松川インターがあるからそこから高速に入れば料金ちょっと安くなるよ。」と教えてくれたので言われたとおりに運転をしたが、途中の道はわりと狭く真っ暗でだいぶ怖い思いをした。しかしこの道でなければ町外れでかなり遠い飯田インターから中央道に入らなければならず、あながち間違いでもなかったんじゃないかと後になって地図を見て納得。

 中央道に入ると途中いくつかサービスエリアに寄って休憩をしながら八王子JCTで圏央道に入り帰ってきた。圏央道はかなり便利だと今回は思った。家に着いたときにはすでに夜中の1時近くになり、総走行距離もざっと600㎞を越えるくらいだった。ときどきこんな長距離ドライブを日帰りでやってしまうが、今回は文句なく楽しかったと思う。

 秘境駅小和田にまた行くかどうかはわからない、また行ってみたいような気もするし、一度行った思い出を良いものとして心の中にしまいながら美化させ続けるのもまたいいことかも知れない。この夏はほとんどどこにも出かけられなかったのでそれだけに印象深い旅になった■
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◆諏訪湖SAから見た夜景








 あ、それで前回の例の木の実だが、あれは胡桃の実。すっかり書くのを忘れていた。胡桃の木は枝振りも葉も独特で一度見れば忘れないものだが、なかなか都会に住んでいると見る機会もないと思う■

 飯田線小和田駅までわんこを連れて来たお話の続き。前回は小和田駅の様子を写真で紹介し、待合室で昼食をとったところで終わった。

 駅前から細い道が藪の中へと続いている。駅から坂を下ったところに四阿が見える。

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 この椅子は皇太子成婚の折に作られたものだという。駅舎にも結婚式の写真もありこの場所で結婚式を挙げた様子などが展示されている。皇太子妃の旧姓が小和田(おわだ)だったことから読みこそ違うがそれに肖っての事だったらしい。今でもこの駅は恋愛成就の場所と云われるようになっている。こんな山里の誰もいない場所にこのようなものが残されていた。この椅子、作られた際には座ったときにメロディーが流れるようになっていたが現在はスイッチが切られているそうだ。

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 一度駅に戻って荷物を置いてこの道のさらに先に行ってみることにした。道端には道標が立てられていた。

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 塩沢の集落までが歩きで一時間。高瀬橋までが25分と書いている。この高瀬橋、だいぶ前から崩落していて渡ることはできない。

 わんことハイキング気分で歩いていたのではじめから最も近い人家だの高瀬橋を見るつもりではなかった、とりあえず上り電車がやって来るまでに駅に戻ろうということで歩き始める。上の写真でもちらりと見える建物は駅のすぐ下にある工場の廃墟らしい、中の様子を撮ったHPもあるのだが僕が行ったときは中の様子は見えなかった。昔、バリバリの廃墟探検家だった頃の血も久々に騒ぐのだが今ではわんこ連れということもあるのでおとなしく横を通過。下り坂が終わるあたりに道から転落したっきりのミゼットの残骸があった(写真は撮っていない)所を見ると昔は何らかの形でここまでやって来る手段があったものと見られる。

 坂を下りきると天竜川がだいぶ近くに見えた。ここのところの大雨続きで水量も増しているらしく川の水は濁っていた。

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 こちらは森の中を歩いていると見かける営林所の山火事注意の看板。これを見るとどういうわけか背筋がゾッとくる。どこで見かけてもリスってのはなにか取り決めでもあるのだろうか。

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◆どこを見ても建物のようなものは見られない

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 この道を川沿いに歩けば最も近い人家があり、そこまでは見られたがその先まで進んでみる気持ちもなく、時間もなかったので引き返す。

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◆さて、これは何の実でしょう(答えは次回)

 写真の実の木が道沿いにすっと生えていてここが山里深いということがよくわかる。この木は里でも普通に見られるがたいてい実は摘み取られてしまうからだ。

 元来た道を引き返し駅に戻る、だいたい40分くらいの散策だった。もうちょっと時間があったら高瀬橋くらいまでは見られたかも知れないが十分に森林浴は楽しめた。ちなみに最新の情報では7月にクマが目撃されている、また川沿いのこのような場所にはマムシもたくさんいるのでできたら道から外れずに歩いた方がいい。(知らない人も多いと思うがマムシは人が噛まれると命に関わるがわんこは噛まれても毒が効かないので噛まれた傷だけ気をつければいい。)

 駅まで戻ってきて大汗をかいていると上り電車がやって来た。この電車がやって来ると20分後に自分たちが乗る下り電車がやって来る。

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◆岡谷行きの上り電車
 
 やって来た上り電車から2人ほど降りてきた人がいたが、それと一緒に数人の保線作業員がやって来た。待合室でわんこと一緒にいる我々に「こんにちは」と挨拶してくれた。保線から乗務員まで飯田線はなんとも印象良く感じられた。

 上り電車が駅を去るとあとは帰り支度をしたり写真を撮ったりして残りの時間を過ごした。2時間半なんてあっという間だ。そしてその間だけでも空は晴れていたのはとてもありがたかった。この日の天気予報は全国的に雨で局地的には大雨になると言われていて、浜松手前あたりから確かに大雨に見舞われてどうしようかと考えたくらいだった。

 やがて電車がやって来て短くも盛りだくさんだった秘境小和田駅での時間は終わる。電車が出発するとすぐにトンネルに入りちょっと見慣れてきた風景も突然終了を迎えた。後は元来た道をゆっくりと電車で戻っていった。途中の中部天竜では8分停車した。中部天竜から先はだんだんと雨脚が強まってきて車を置いた三河川合駅に着いたときはあり得ないほどの土砂降りだった。小和田の駅にいたときだけでも夏らしく晴れていたのが信じられないほどだった■

 飯田線小和田駅までわんこを連れて来たお話の続き。前回は電車で駅に到着したところまで書いた。今回はこの小和田駅の写真を紹介。

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◆駅舎正面
 普通は駅の入口なら多少は広くなった場所があってもいいのだが、この駅にはそんなものは存在しない。そのまま真っ直ぐ細い小道が藪の中へと続いているだけだった。以前はトイレと自動販売機もあったのだが現在ではそれも撤去されている。

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◆駅周辺案内板
 この駅の周辺案内なのだが、かつては集落が存在していたことがわかる。また、この駅がどのような位置にあるのかがこれを見るとよくわかるのだが、天竜川が急に細くなっているのはおかしい。春は山菜採り、夏はキャンプ、そして秋は紅葉と案内に書かれているが、今となってはどこでキャンプをしていいのかもわからない。
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◆通過列車
 特急列車のようで止まらずに通過していった。列車通過時には踏切の警告音が流れる仕組みになっている。乗客のためというよりは保線作業員のためのものだろう。
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◆机と旅の日記帳
 観光地やこういった無人駅などに旅の日記帳というものがよく置かれているがこの駅も例外に漏れず日記帳があった。昔はよく書いていたのだがある時を境に書かなくなってしまった。机の上はきれいに整頓されていてペン立て、電波時計などがきちんと乗っていた。地元の人がよく手入れをしているという話を聞いたことがあるが旅人にとっては嬉しいことでもある。
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◆駅名票
 紺地に白抜きの駅名票は相当古いと思われる。おそらく小和田と大嵐(おおぞれ)の両駅が開通した頃のものではないかと勝手に思っている。小和田~大嵐はかつては天竜川を利用した水路で行き来をしていたらしい。
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◆公衆電話の看板
 駅舎の裏手に無造作に置かれていた看板、赤色が褪せていないところから見てもずっと日の当たらない場所に放置されていたのではないだろうか。この駅にもかつては公衆電話があったということなのだろう。電報も扱っていたということは駅員が常駐して電報業務も行われていたのではと考えられる。
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◆待合室
 木枠の窓にはしっかりとガラスが填められていた。風通しも良いので真夏でも涼しく過ごすことができた。椅子は木製の取り付け長いすだったが、清掃が行き届いているのでホコリ一つない。
 総じて駅舎はきれいに保たれていてこの駅自体がひとつの観光地のようなものなのかも知れない。なので訪れる人もできるだけ汚さないように心がけているのだろうと思う。

 ここで一通り撮影をした後は予め買っておいたお弁当を待合室で食べた。相変わらず耳に届いてくるものはツクツクホウシの鳴き声ばかりだった■

つづく



2014年8月23日(土)

 この日やっとママとお休みが合ったので早朝出発で静岡県にある飯田線小和田駅に行ってみた。朝は5時過ぎに出発、海老名ICから東名に入り御殿場から新東名に、新東名終点から三遠南信道に入る。新東名終点から三ヶ日に向かう途中浜松いなさJCTで分かれる道で、いったいどこへ行くのだろうと感じた人も中に入るのではないかと思う。途中静岡SAでちょっと休憩をしただけであとはそのまま運転を続けた。静岡も西部に入る頃には激しい雨に見舞われ、こりゃ一日雨降りだろうなと半ば諦めムードだった。
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 三遠南信道はまだ未開通で浜松いなさからだと現在は鳳来峡というところで国道151号に下ろされてしまう。正直ここどこというような場所である。このすぐ近くにJR飯田線の三河川合駅というのがあってそこで車を駐める。時間は9時ちょっと過ぎくらい。予定では9時49分に上り電車がやって来るのでそれまではヒマだ。しかもこの駅、近くに何があるでもない。

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◆飯田線 三河川合駅

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◆駅前にあるお店、もう営業はしてないのかな。

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◆すぐ近くの郵便局のポストは現役


 天気はどんよりとした曇り空で今すぐに降り出してもおかしくはない感じだった。駅前から通りに出ると正面に写真の商店が、かつては食事も提供し宿もやっていたところを見ると旧街道沿いの宿場だったのかも知れない。生活圏も豊橋の地酒を置いてあるところを見ても三河の一部ではないかと思われる(しかしここから豊橋はかなり遠い)

 電車に乗り込むとそこそこ乗客がいる。乗り込んだ電車は十年くらい前には東海道線でも走っていたステンレス製の電車(僕はこれを「カオジロ」と勝手に呼んでいた)だった。この電車乗り心地が悪くて大嫌いだったがいつの間にか姿を消していた。ボックスシートに座ると若くてカッコ良い車掌さんが手際よく検札にやって来た、ここから小和田駅までの往復乗車券とわんこの手荷物運賃(これは280円)を払う。乗客は地元の人と言うよりは観光客や旅行者などが目立つ。飯田線は沿線の風景も良くのんびりとしているので人気があるのだ。

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◆わんこは「お荷物扱い」でなく「手荷物扱い」


 電車は途中中部天竜駅で30分近く停車、単線だから上下の電車をすれ違いさせなければいけない。その間乗客もみんな外に出て思い思いに写真を撮っていた。車に乗る前あちこちを旅して回ったときの足は鉄道だったがこういった風情は鉄道旅だからこそ感じられる。

 中部天竜を出て30分ほどで目的地の小和田駅に到着。「秘境駅」として知られているのできっと鉄道ファンの方々がいっしょに降りるのかなと思いきや我々だけだった。あんなに降りそうだった空は真っ青に晴れ渡っていた。

 列車が去ると静寂が戻り、届いてくる音は周囲の山々のツクツクホウシの鳴き声ばかりである。

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 ホームの上は逃げ場もなく日差しも強くていかにも夏だった。

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 この駅は位置的には静岡県浜松市天竜区にあるのだが、すぐ下を天竜川が流れていて川向かいは愛知県。そしてホームからも見えるトンネルを抜ければその先は長野県である。そのためホームにも上の写真のような票が立てられていた。

 この小和田駅が有名になったのは昨今道路から離れていたり、周辺の集落がすべてなくなってしまったりする行きづらい駅、行ってもしょうがない駅が「秘境駅」と呼ばれて一部の人に人気になったことがある。この小和田駅はまさにそんな秘境中の秘境、秘境駅ランキングでも2~3位にランキングされるくらいだ。かつてこの駅の周辺には集落がいくつもあったが、佐久間ダムのダム湖ができたことで一部は水没、新しいルートからも離れてしまい今となっては最寄りの集落まででさえ歩いて1時間はかかる。車で到達することは不可能でここに来るには飯田線を利用するしかない、しかしここに来ても他の場所に行くこともできない。

 そんな駅ならとっとと廃止しろよと思うし、僕も最初はそう思っていたのだがたまたまYouTubeで見たビデオがとても良かったのか、この駅の良さを余すとこなく紹介していたのを見てから気にかかりはじめてきた。(その動画はこちら)このビデオあってこそこんな辺鄙な場所まで出かけられたのだろうと自分では思っている。

 この小和田駅までわざわざわんこも連れて来て、次の下り電車がやって来るおよそ2時間半の間だけ秘境の孤絶感にひたろうというのが今回の狙いだった■

つづく

 前回はシェンクァンとルアンパバーンの写真を紹介して終わった。今回はいよいよ最終回。首都のヴィエンチャンの様子。

 ヴィエンチャンでは旅疲れもありゲストハウスはやめて町でも最高級のホテルに滞在した。1泊23ドルのシングルルームはその値段からは想像できないくらいの豪華な部屋、立派なアメニティ、そして毎日交換されるフルーツバスケットのサービスまであって至れり尽くせりだった。

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◆流石にヴィエンチャンは都会である。

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◆ヴィエンチャンの中心部にあるタット・ダム(黒塔)

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◆メコン川沿いの寺院ではセパタクローの試合が行われていた。

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◆ヴィエンチャン中心にあるパトゥーサイ(凱旋門)
戦没者慰霊塔。

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◆町中最大のダラー市場の内部

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◆長距離バスステーション。南へ向かうバスが待機していた。

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◆パトゥーサイの内部、女の子がかくれんぼをしていた

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◆ラオスのシンボル、タット・ルアン
中心の塔は高さ45m

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◆夕暮れ時はいつもメコン川まで足を運んだ

 こうして首都ヴィエンチャンでは5日間滞在し、ビザ切れ当日はシクロ(自転車タクシー)に乗ってミダパップ友好橋に向かい、パスポートコントロールをすませてタイへと出国した。出国と同時に手持ちのラオスの通貨は紙切れ同然となってしまった。

 タイ側の町の名前はノンカイ、日中この町をフラフラ歩き回り、夕方夜行列車に乗ってバンコクへと戻っていった。

 ラオスは今でもあまりの印象深さに時々思い出してはまた行きたくなる。特に今回のラオフェスはそんな雰囲気を所々で感じ取れたこともあって僕にとってはとても楽しいイベントだった。これらの写真は15年ほど前の者だが、今でもラオスはこんな素朴な風景が残っているのだろうか。気になって仕方がない。仕方がないけどもう行くこともできない。それがつらいところだ■